holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

アイデンティティー

 「アイデンティティー」という言葉は、教会よりも世間でよく使われているように思います。私はこの言葉は信仰を考える上で大切な言葉だと考え、説教でも用いますが、だれもが聞いてすぐ理解できる言葉ではないので、使うことにためらいは感じます。だからいつも説明を加えながら使います。手元にある英語の辞書によれば「同一性、自己認識、自分を何者として宣言するかという本質的自己規定」。このような説明を説教で使うことはできません。

 なぜ、アイデンティティーが大切なのかというと、神さまが、ご自分が何者であるかを宣言されるからです。神さまがご自分がいかなるものかを宣言される、言い換えると神さまはご自分のアイデンティティ-を告げ知らせる方なのです。たとえば創世記17章1節。

アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」。

 神さまは御自身が「全能の神」であることを告げています。あるいは出エジプト記34章6~7節では神さまは言われます。これはモーセシナイ山に登ったときのことです。

主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」 

  ここでも神さまは御自身がいかなる方であるかを宣言します。たとえば憐れみ深く恵みに富む方、忍耐強く、慈しみとまことに満ちている方です。ですから、神を信じるとは、漠然と神の存在を信じるのではなく、神がそのアイデンティティどおりの方であることを信じること、ということができます。またイエス様もご自分がいかなる方であるかを語っておられます。ヨハネ福音書14章。

エスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。

 イエス様は「道」であり、「真理」であり、「命」であるとご自分のアイデンティティーを宣言されています。ヨハネ福音書には、イエス様がご自分がいかなる方かを語られた言葉がいくつもあります。イエス様を信じるとは、イエス様がそのアイデンティティーどおりの方であることを信じることでもあります。

 そして驚くべきことに神さまが御自分を信じる者たちのアイデンティティーを語られることです。エジプトの奴隷状態から救われたイスラエルの民は「神の民」となりました。「神の民」、それがイスラエル民族のアイデンティティーでした。またイエス・キリストを信じる信仰者については、信仰によって義と認められた存在、つまり「正しい人間」であると神さまはおっしゃいます。「正しい人間」、これは信仰者のアイデンティティーです。<義(ただ)しい人間>と書きたいところです。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3:26)。

 この聖句は「神の子」が、信仰者のアイデンティティーであることを告げています

 信仰者のアイデンティティーで一つ問題となることは、信仰者の現実存在がアイデンティティーと一致しているとは限らないという点です。神さまは、アイデンティティーどおりの方です。しかし信仰者はアイデンティティーどおりの存在とは言えません。「正しい人間」と言われても、罪を犯します。「神の子」と言われても、神の子らしからぬ思いを持ったり、神の子らしからぬ行動をします。どう考えたらよいのでしょうか(つづく)。