今、コリントの信徒への手紙二を日々思いめぐらしています。私の言葉で言えばデボーションをしています。味わっていく中で牧会者としてのパウロの愛を感じます。今日は3章1~3節を読みました。
パウロがコリントに教会をつくり、その後コリントの町を離れました。その後ある人々が推薦状を携えてコリントの教会に来ました。推薦状をコリント教会の人たちに見せ、自分たちが福音宣教者であることを伝えました。そしてこの人たちが暗にパウロが使徒であることを非難したのではないかと思われます。このことがパウロに伝わり、パウロはコリント教会に手紙を書くのです。今日読んだのは、その手紙となります。
すでに2章の最後でパウロは、自分たちは神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っていますと自分たちが神から遣わされた使徒であることを語っています。
そして3章に入ってパウロは、自分たちの推薦状はコリント教会、コリント教会の人たちだと語ります。コリント教会に来たある人たちが携えてきた推薦状には、たとえば○○教会からの推薦の言葉が書かれていたかもしれません。そしてそれなりに重みを与えていたと思われます。そしてその人々はパウロを批判したらしいのです。コリントの教会の人たちはどうしたでしょうか。コリント教会の人たちは動揺したと思われます。それでパウロは手紙を書いているわけです。
パウロは、自分たちの推薦状は「あなたがた自身です」と語ります。ここに私はパウロの二つの思いを感じます。第一に、パウロがコリントに行きキリストを宣べ伝えたからコリントに教会ができました。私が使徒で福音を伝えたからコリント教会があり、あなたがたが信仰者として教会にいます。教会の存在、あなたがたの存在は、私が使徒であることを示しているのではないですか、とパウロが語っているように思います。私が使徒であることを疑わないで欲しいとのパウロの思いがあると考えます。
第二に、コリント教会には色々問題が起きました。そこでパウロは手紙を書いています。コリントの信徒への手紙の一では色々な問題についてパウロは教えています。パウロがコリントの町で一年半伝道してできた教会です。そして今パウロが手紙を書いているときまで、数年ぐらいしか時は過ぎていないと思います。指導者であるパウロがいない時、コリント教会の人たちの信仰がどれほど成長したのか、わかりません。異教社会の中にあってキリスト者として生きて行くことに戸惑いもあったでしょうし、信仰を持つ以前のように振る舞いキリスト者らしくないこともあったと思います。
つまりコリント教会の信仰者たちは、模範となるような信仰者であったとは正直思えません。でも信仰に生きようとしていたことは確かだと思います。そんな彼らをパウロは、自分たちの推薦状だというのです。コリント教会を見れば、コリント教会の人たちを見れば、パウロが使徒であることが分かるというのです。
でも考えてみれば、コリント教会の信仰者たちがすばらしいから、指導者であったパウロが使徒であるということではありません。できたてのコリント教会のキリスト者たちは、信仰者として迷いながら悩みながら生きていたのです。ある人は、こんな未熟の教会の指導者なんて大したことがないと言うかも知れません。言ってもおかしくありません。そういう中でパウロは、コリント教会は私が使徒であることの推薦状だというのです。たとい未熟であろうと信仰に生きようとしているコリント教会の信仰者たちは、パウロにとって誇りであり、喜びなのです。
そしてコリント教会の信仰者たちは未熟だから、パウロを批判する教師たちによって影響を受けました。教師たちは○○教会からの推薦状を提示し、自分たちの権威を示し、パウロを批判したのです。コリント教会の人たちはパウロに対して批判的な思いへと導かれました。でも、それでも、パウロのコリント教会への思いは変わることなく、あなたがたが私の推薦状だというのです。コリント教会を愛すればこその言葉です。このパウロの愛は、キリストの愛、神の愛の現れといってよいと思います。人間の愛を越えています。
パウロは教会が未熟のままでいいとは思っていません。だから手紙で教えています。それは深い内容を持っています。現代の私たちにとっても課題となるような挑戦的な内容を持っています。パウロは教会を愛し、期待し、教えています。パウロの愛は、教会と信仰者をただ受け入れるだけの愛ではなく、その信仰の成長に責任をもって関わる愛です。
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聖書を読んで考えます。牧師としての自分が教会そして教会に連なる信仰者を愛することができるとすれば、それはなぜか、と。
その教会が立派な教会でありそこに集う信仰者たちが立派だから愛することができるのか。それとも、ここにキリストの教会があり、そこに集っている人たちだから愛することができるのか。たとい集う信仰者たちの信仰が未熟であっても愛することができるのか。
キリストの教会があり、そこに信仰者が集っているなら、どんな教会でも、どんな人が集まっていても、パウロはこれを愛する、と答えると思います。これが神の愛、キリストの愛だからです。