本日のメッセージ(2011.1.9)
聖書 ルカ 3:15〜20 聖霊と火の洗礼
私は1981年に伝道者として三重県の鳥羽教会に赴任しました。地区で行うCS夏季キャンプに何回か参加しました。ある年、キャンプの後、そのキャンプに奉仕をした他の教会のCSの先生から、手紙が届きました。そこには、私の話には力がない、と書かれており、聖霊のバプテスマ(洗礼)を受けるべきだという勧めが書かれていました。そして『聖霊のバプテスマ』という題の小さな本が同封されていました。
その本には、聖霊のバプテスマを受けると力が与えられること、そして異言を語るようになることが書かれていました。その時、私は自分は聖霊について何も知らないことがわかりました。聖霊の働きは何か、それは牧師としての私の大きな関心になっていきました。聖書には、聖霊に満たされる、という言葉が何回もできています。
- それはどういうことなのか。
- 聖霊に満たされるとどうなるのか。
いろいろな本を読みあさりました。そして今日の聖書では、主イエスは聖霊と火で洗礼を授けるとヨハネは述べています。私たちは、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を受けますので、聖霊による洗礼を受けています。となると余計に、聖霊による洗礼とは何なのか、非常に気になります。皆さんは聖霊の働きをどう思っているのでしょうか。
主イエスの弟子たちは、聖霊に満たされて伝道し、多くの人が信仰を持ちました。今日、信仰に入る人が少ないのは、聖霊の働きをきちんと受けとめていないからではなのか、そんな思いを私は持つのです。使徒言行録の1章8節には「あなたがたの上に聖霊が降るとあなた方は力を受ける。そして地の果てに至るまで、私の証人となる」と主イエスはおっしゃいました。
ヨハネの父ザカリアは、ある時、エルサレム神殿で祭司としての務めをしている時に、天使のお告げを受けました。<あなたの妻は身ごもり子を産む。その子は、母の胎にいる時から、聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らを神である主のもとに立ち帰らせる>。特別な働きをする子が授かると天使から言われたのです。子供のないザカリア夫婦は天使のお告げに戸惑いながらも、子が授かることを喜んだと思います。しかも神のために大切な働きをするというのですから、信仰深いザカリア夫婦には大きな喜びだったと思います。
ヨハネが生まれた時、父ザカリアが聖霊に満たされて語った言葉があります。ヨハネは
「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」(1:77)。
罪の赦しによる救いというものがあることを伝える働きをするというのです。神がヨハネに与えた使命は、イスラエルの民に罪の悔い改めを促すことでした。それは旧約聖書に登場する預言者の働きと同一のものです。イスラエル民族は、神に選ばれた民でした。ところが神の民としてふさわしい歩みをしていない時、預言者は、罪を悔い改め、神に立ち帰るように説教をしたのでした。ヨハネも預言者としての働きをするように神から使命を与えられたのでした。
3章3節に
と書かれています。彼は、罪の赦しを得るために、まず悔い改めの意思を表して洗礼を受けるように人々に語ったのです。マタイやマルコ福音書では、ユダヤ全土から、またエルサレムから人々はヨハネのもとにやってきたと書かれており、ヨハネの説教の影響力が大きかったことがわかります。ヨハネは、罪を悔い改め、神に立ち帰ることを宣べ伝えたのでした。それがメシア、救い主の到来のための準備となりました。
罪とは、イスラエルの場合、彼らの先祖をエジプトの地、奴隷の地から彼らを救い出し、彼らの神になってくださった神を認めないこと、神に聞き従わないことでした。私たちの場合、イエス・キリストにおいて、愛を示してくださった神を認めないこと、神の心を大切にせず、神との関わりに生きないことが罪です。
罪ってなんか、むずかしそうで、ややこしいように見えるでしょうか。そういう理屈はともかくとして、罪を犯している人間の生活には、必ず破れがあるのです。そして人は皆、罪人であると聖書は述べます。
- 人は破れがあっても見栄を張って生きたり、
- 破れがないかのようにして生きたり、
- あるいは破れをどう繕ってよいかわからず、苦しみの中に生きています。
ヨハネの影響力が大きかったので、人々は、ヨハネが待ち望んでいたメシア、つまり救い主かと思ったのです。そこでヨハネは、自分はメシアではないことを人々に伝えます。私のあとから、私よりも優れた人が来る。その人こそ、メシアである、と告げます。自分とその人の違いをヨハネはこう表します。
「私は水で洗礼を授けるが、その方は、聖霊と火で洗礼を授ける」。
普通、罪の赦しによる救いと言えば、罪が赦されることを考えます。罪の赦しによる救いというのは、罪の赦しを考えればよいのでしょうか。ヨハネは、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を授けました。彼はヨルダン川で、洗礼を求める人の全身を水の中に押し込んだのです。水で満たしたのです。しかし主イエスは、聖霊と火の洗礼、つまり聖霊と火で満たす洗礼を授けるというのです。
ヨハネは、イスラエルの民の歴史を知っています。イスラエルの民の歴史の特徴は、
- 彼らが神に背き続けると神は彼らに懲らしめを与えたことです。
- そして、神への背きを悔い改めると、神はイスラエルを苦しみから回復させたことです。
- 民が罪を犯し、神が悔い改めを求め、民が悔い改めるという歴史を繰り返しました。ですから、罪の赦しによる救いというのは、罪の赦しを得ることだけなのかどうか、ヨハネは何を考えて、主イエスは聖霊と火による洗礼を授けると語ったのか、と考えるのです。
この社会でも犯罪を犯した人は裁判を受け、罪を償います。刑務所で償いの時期を過ごすわけですが、更生することが期待されています。犯罪を二度と犯さないようになることが期待されるわけです。ですから、
- 罪の赦しによる救いとは、罪に打ち勝ち、罪を犯さなくなってこそ、罪の赦しによる救いと言えるのではないでしょうか。
- 罪の赦しによる救い、それは神が与えるものですが、罪に打ち勝つ力を人間に与えるものでないなら、罪の赦しによる救いは、不十分な救いとなるのではないでしょうか。
薬物を使用したとの理由で、逮捕され、刑に服する芸能人がいます。刑期を終えて社会復帰するのですが、また薬物使用を繰り返すということが起きています。罪を償わせることが更生を意味するのなら、薬物依存症からの回復プログラムに参加することが服役している時になされなければ、刑期を終えて社会復帰してもまた薬物を使用することになります。罪の赦しによる救いというのは、同じ罪を二度と犯さないという処置があってこそ、救いとなるのではないでしょうか。そこに、聖霊と火の洗礼の意義があります。
金属の金を純度を高くするために火で精錬します。火で金属を溶かし、そこに含まれている不純物を取り除き、純度を高めていくのです。人間から罪を取り除いていく、それが聖霊と火の洗礼の意味することです。
ヨハネは、母の胎にいるときから、聖霊に満たされていました。彼の両親も聖霊に満たされて語ったことがありました。
- ヨハネは聖霊に満たされることがどういうことかを体験的に知っていたのではないでしょうか。
- 聖霊に満たされ、聖霊の導きを受けるときに、罪の清めを受け、同じ罪を犯さないようなるという聖霊の働きのあることを知っていたのではないでしょうか。
- あるいは、聖霊に満たされると、神の思いに自分の心が近づき、罪から離れることを知っていたのではないでしょうか。
- ヨハネは、自分は人々に罪を気づかせ、悔い改めに導くことができても、人々の心を清めることはできない限界を知っていたのではないでしょうか。
- それで私のあとから来る方は私よりも優れた方で、聖霊と火で洗礼を授けると述べたのではないでしょうか。
ヨハネは、メシア、救い主としてこられる主イエスは、罪の赦しを実際に与え、悔いる心を新たにする方であると証をしたのです。イスラエルのダビデは、信仰深い王でした。しかし彼はある時、大きな罪を犯しました。姦淫と殺人の罪です。彼が自分の罪を悟らされたとき、彼は祈りました。
「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」。聖霊の洗礼を受けるとき、私たちの内に、清い心が創造されるのです(詩篇51)。
清い心が創造されてこそ、罪の赦しによる救いです。私たちが「父と子と聖霊の名によって」洗礼を受ける時、私たちは、清い心を与えられるのです。この救いを得て心清められて生きていくことができる、なんと幸いなことでしょうか。清い心が造られる、これが、罪の救いによる救いです。神の賜物、神の恵みです。この恵み、救いを確かなものとして受け取りましょう。
祈り
天の父なる神、
あなたはヨハネを通して、人々に、あなたの救いを待ち望むようにさせました。罪の赦しを受ける救い、それは清い心を与えられることでした。罪の故に、様々な破れがありましたが、それらが繕われ、喜びと平安をもって生きることのできる幸いを感謝します。
私たちをこの救いに与え、信仰に生きる幸いを感謝し、あなたをたたえることができるように導いてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。