マルコ 7:20~23
人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。
悪い思いは心の中に湧いて出てきます。悪い思いが湧いてきたら、私たちは罪を犯したことになるのかと言えば、違うと私は考えます。悪い思いに誘われて、何らかの行動をしたとき、私たちは罪を犯すのです。
悪い思いが湧いてくるのは、私たちが罪深い人間だからです。主イエスには悪い思いは湧いてこないと思います。大事なのは、悪い思いに支配されて行動しないことです。どうしたらいいのでしょうか。
1.作戦1
悪い思いが湧いてきたら、別のことを考えることです。悪い思いから離れることです。
たとえば、誰かにねたみを覚えたとします。その人の悪口を誰かに言って憂さを晴らしたら、これは罪を犯したことになります。そこで、私は神さまに愛されている。神さまは私のありのままを「それでいい」と言ってくださる。だからねたむ必要はない。放蕩をし尽くして家に帰ってきたどうしようもない息子。自分は息子と呼ばれる資格はないと考えましたが、父はよく帰ってきたと受け入れました。神さまはキリスト者を受け入れてくださるのです。そのことを思い、人を妬む必要はないと考え、心からねたみを追い出します。
たとえば、ある人に対する批判的な思いがわいてきたとします。その人に問題点があるから批判が湧いてきます。「あの人こうなのよ」と誰かに告げ口するのではなく、その人のために執り成しの祈りをします。自分だって完全な人間ではないし、足りない点はあるし、そのためにだれかが祈ってくれればうれしいです。
たとえば、みだらな思いが心に湧いてきたら、考えましょう。人間は皆人格を持った存在であり、そのゆえに人は敬われる存在です。欲望の目で人を見ることは、その人の人格を無視し、侮辱することになります。神さまは、罪を犯す私たちの人格を大切に考えてくださり、私たちをイエス・キリストにより救おうとされました。私たちを見捨てません。軽んじません。他者の人格を大切にする人になろうと自分に言い聞かせます。
盗み、詐欺の思い。自分の通帳に多額の金が振り込まれました。何とか自分のものにできないか、と考えます。「盗んではならない」と十戒にあります。すぐに役所に電話して、返却の手続きをするようにします。すぐにです。迷う心が出てくる前に、すぐにです。
要するに悪い思いが湧いてきたら、囚(とら)われないことです。そして対策を考え、実践することです。悪い思いは何度も湧いてきます。その都度適切に対処すれば、問題にならなくなります。
2.作戦2
これは大切です。姦淫と殺人の罪を犯したダビデは悔い改めた後、神に祈りました。私たちも同じように祈ります。
「神よ、私のうちに清い心を創造してください」。
清い心とは何でしょうか。私は神の子がもつ心、神の子として生きる心だと考えます。私たちキリスト者はイエス・キリストを信じ、神の子とされました。神さまは私たちを神の子として愛してくださいます。
そこで、神の子として生きていこうと決断します。悪い思いが湧いてきたときは、神の子として生きるためにはどう対処したらいいのか考え、対処していきます。これを繰り返していくと、だんだん悪い思いが湧いてこなくなります。悪い思いから解放されていきます。湧いてきても、即座に対処できます。
このようにして私たちは、悪い思いから清められていきます。
悪い思いが心に湧いてくる私は罪深い者だと思い、そこにとどまるのはやめます。悪い思いが湧いてくるとき、これはチャンスです。私たちの心が清められるチャンスです。
もちろん、私は罪深い者だと考え、そこにとどまりたければとどまってもいいです。その時は、信仰者に対して恵みとして与えられる祝福、この場合は、心が清められる祝福はないものと覚悟しなければなりません。どちらを選択するのかは、あなたの自由です。