神の戒めを守ろうとした時、心が抵抗することがあります。従いたくないなと思う心があることに気づきます。そんなのしょっちゅうだよと言う方もおられるかもしれません。でもこれは、いやこれこそが信仰の成長のチャンスです。
「従いたくない」と思う心は、私たちの(あなたの)正直な心です。聖書はこれを肉の心と呼びます。つまり生まれながらの人間の心であり、基本的に自己中心の心です。神の戒めは、神さまの御心を現しています。ですから自分の心に従うか、神さまの御心に従うのか、心の中に戦いが生じることになります。
この戦いを戦う前に考えておかなければならないことがあります。それは私たち(あなた)は、神さまの御心を大切にしたいと思うか、どうかです。自分の心よりも大切にしたいと思うか、どうかです。どっちが上か、です。イエス様によれば神さまの戒めは要約すれば、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することでした。神を愛するとは、神さまの心を大切にすることです。神を愛するとは、神さまの御心を喜ぶことです。
信仰者が生きる時、神を愛する人になること、神さまの御心を大切にする人となること、神さまの御心を喜ぶ人になることが大切です。これを邪魔するのが、私たちの中にある自己中心の心です。そこで私たち(あなた)は自分に問うのです。自分は神さまの御心を第一にして生きていきたいのか、自分の心を第一にして生きていきたいのか。自分の心を第一にして生きることは罪です。根本的な罪です。
もし私たち(あなた)が神さまを信じつつ、なお自分の心を第一にして生きていきたいのなら、いつも自分の罪を意識し、罪に負けて生きる自分を意識することになります。イエス様は私たち(あなた)の罪を赦してくださるために十字架につかれたと考え、自分は罪を赦されていると考えても、心には救われた喜びは湧いてこないでしょう。キリストの十字架に逃げても心には救われた喜びは湧いてこないでしょう。
もし私たち(あなた)が神さまの御心を第一にして生きていきたいと考えるなら、そのことを神さまに告白し、助けを求めることが大切となります。神さまに助けを求めて、神さまの戒めに従うべく一歩を踏み出すのです。この一歩が大切です。この一歩を踏み出せたなら、私たち(あなた)は変わります。神さまの御心に従えたことを喜びます。その時、私たち(あなた)は、神さまの御心を大切にする人間に一歩近づいたのです。そして一歩、一歩、歩いて行けばいいのです。
イエス・キリストを信じる人はキリストの十字架の死と復活の恵みとして、神さまの御心を第一にして生きていけるように、神の子とされています。このことを信じることはとても大切です。信じる信じないは私たち(あなた)の自由です。神の御心を第一にして生きるか、自分の心を第一にして生きていくか、どちらを選ぶのか、それもあなたの自由です。
イエス・キリストによる救いとは、罪の赦しだけではなく、私たちが神の子とされ、神さまの御心を喜び、神さまを第一にして生きていくことが可能とされたことだと私は信じています。