私には毎朝祈る祈りがあります。それは「今日も御国への一日の旅路を歩ませて下さい」との祈りです。そして就寝前に必ず祈る祈りがあります。それは「御国への一日の旅路を歩ませて下さり感謝します」との祈りです。この祈りを始めたのは、半年ほど前からです。
イスラエルの民が奴隷であったエジプトから解放され、彼らは自由に生きることができる約束の地を目指して荒野を旅しました。彼らはしばしば困難に出会い、その都度、神に信頼せず、不満不平を言いました。そんな彼らを不信仰な民と思い、そのように語ってきました。しかし荒野の旅は単調な旅であり、試練はつらかっただろうな、とイスラエルの民を思いやる気持ちが心の中に湧いてきました。だからといって神さまに信頼しようとしなかった彼らを擁護するつもりはありません。しかし単調な日々が続く中、時折試練が来るというのはしんどいなと思います。
私も牧師の働きから引退し、ある意味、単調な日々を過ごしています。この単調な日々をどう位置づけて生きることができるのかを考えたとき、キリスト者は御国を目指して生きているのだと考え、朝には「御国への一日の旅路を歩ませて下さい」と祈り、夜には「御国への一日の旅路を歩ませて下さり感謝します」と祈ります。日々祈っていればマンネリ化しますから、どうしたら真心からの祈りとして祈り続けることができるのかは課題です。
それなら今日はどうなの?となります。今日はマルコ福音書でディボーションしました。日々聖書を思いめぐらすことはその日を他の日々と違う日にします。また10月31日の説教奉仕の準備。そして夕食のためにバターチキンカレーを作りました。昨日ともそして明日とも違う今日を過ごせたことは、御国への一日の旅路を過ごせたことになると思いました。