クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(25)いのちのイメージ(続き)

  1. キリスト者は律法に背いても罪をとがめられず、罪の責めを受けません。
  2. キリスト者は神を知り、神を喜び、神を誇ります。
  3. キリスト者は神の戒めを喜んで進んで行いたいと考えます。
  4. 神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります。

 前回の続きです。キリスト者は新しい「いのち」を与えられて新しく生まれたこと、「いのち」は生命力をもっていること、その「いのち」の働きに身をゆだねることの大切さをお話ししました。

 キリスト者が新しく生まれたことについては聖書の他の箇所でも語られています。

ヤコブ 1:18
御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。


ペトロ一 1:23
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

 神さまは、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。洗礼を受け、キリスト者として私たちは生まれ変わりました。私たちは真理の言葉によって生きるように生まれたというのです。真理の言葉は、神の言葉、福音と考えることができます。

 「いのち」にはそれを育む栄養が必要です。人間の赤ちゃんは母乳によって育てられます。キリスト者を育てるものは何でしょうか。

ペトロ一 2:1~2
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 ここには霊の乳を慕い求めることが書かれています。キリスト者に与えられた「いのち」に必要なものは霊の乳です。霊の乳とは神の言葉のことです。そして聖霊の導きも含まれていると考えます。

 聖書の言葉が私たちの心に神の言葉となって届く時、聖霊の働きがあります。礼拝説教で語られた言葉が、神の言葉となって私たちの心に届く時、聖霊の導きがあります。聖霊の働きが伴うゆえに、神の言葉は霊の乳と呼ばれます。

 キリスト者は霊の乳を慕い求めて歩みます。それは言い換えると神さまの言葉を喜んで受け入れ、心から喜んで従おうとすることです。そこには神さまの言葉に「従わなければならない」という思いはありません。そうではなく、喜んで従うのです。

 この「いのち」は、喜んで従うという思いを私たちの心の中に生み出します。この「いのち」の働きにゆだね、従います。このようにしてキリスト者は少しずつ成長していきます。
          ☆


 老婆心ながら一つ付け加えておきたいと思います。私たちが神の言葉に従おうとする時、それに抵抗する思いが心の中にあることに気づくことがあります。その時、「従いたい」という思いは、「いのち」から来る思い、聖霊の導きによる思いです。そして「従いたくない」というのは罪から来る思いであり、自分を第一とする思いから来るものです。それは神さまに対して抵抗する思いです。

 従うのか、従わないのか、どちらを選択するかは、あなたの自由です。しかし神さまの助けを祈り求めて思い切って一歩踏み出し「従う」ことを勧めます。次回から迷いが少なくなります。

 赤ちゃんが立って歩き始める時があります。最初はまず立ちます。それから歩き出しますがすぐ転びます。立っていきなり歩き続けることはできません。転ぶという失敗を繰り返しながら、やがてちゃんと歩き続けることができるようになります。キリスト者の歩みも同じだと思います。

 新しい「いのち」を与えられたキリスト者として生きるイメージを紹介しました。

立山にて 夏(2009)