聖霊はどのように私たちを導いてくださるのでしょうか。聖書から考えます。
ペトロの手紙一2:1~2
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
「霊の乳」を慕い求めなさいとあります。霊の乳とは、神さまの言葉のことです。神の言葉を慕い求めなさいと勧められます。霊とあるので聖霊の導きを祈り求めて聖書を読み、糧とすることを意味していると私は解釈します。テモテの手紙二4:16には、聖書の著者は聖霊であると書かれています。
ヘブライ人への手紙5章12~14節
実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
私たちにとっては、「固い食物」「義の言葉」は共に聖書、神さまの言葉のことです。「固い食物」「義の言葉」とあるのは、神さまの言葉を思いめぐらし、そこから神さまの導きを受け取って生きること、つまり神の言葉を実践して生きることを意味するからです。「霊の乳を慕い求める」とは、神の言葉が何を語っているのかをまず知ること、神さまの御心を慕い求めることを意味します。幼子が大人に成長するようように、私たちは、御言葉によって生きる、御言葉を行って生きるようになります。御言葉を適用して生きるということができます。固い食物を食べて信仰生活を送ります。
デボーションは、固い食物を食べることに相当します。これは聖霊の導きなしには行えません。デボーションを続ける中で、自分の内におられる聖霊の導きを確信できるようになります。
マタイ福音書4章4節
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある」。
昔エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を旅するとき、毎朝、神が与えてくださるマナを食べました。彼らは日ごとに神さまが与えてくださるマナを食べて歩みました。同じように私たちも日々聖霊に導かれて御言葉によってこの世の旅を行います。デボーションを行い、聖霊との交わりに生きること、御言葉によって生きることができることは神さまの大いなる祝福と私は受けとめています。この聖霊との交わり、聖霊の導きはキリスト者なら、誰にでも与えられます。地味な賜物ですが、祝福が詰まった賜物です。