私が求道者の頃、「行ってみたら」と言われて行った教会の祈祷会。牧師の聖書講解の話が終わると、参加者が一斉に異言で祈りだし、私は怖くなって逃げ出したことを「聖霊の導きを求めて」の第一回で書きました。その教会は久遠キリスト教会といいます。その時の指導者は丹羽鋹之牧師でした。丹羽牧師が聖霊を求めた次第も書きました。
この丹羽牧師が晩年、後にこの教会の牧師となる弟子となる人に語った事があります。祈祷会に出席する人たちは異言で祈っていました。つまり異言の賜物を受けているわけです。その信仰者たちを丹羽牧師が見て日頃感じていたことがありました。一つには、愛の実を結んでいない、ということ、二つ目に、肉の性質が見え隠れしている、ということです。私たちが肉の性質に打ち勝って行くことを聖化と言います。それが見られないと語られたのです。
パウロはコリント一13章でこう語っています。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
異言の賜物、それは聖霊の賜物ですから、与えられることはすばらしいに違いありません。しかし愛がなければ空しいとパウロは語ります。丹羽牧師の心には、無念な思いがあったのではないかと推測します。また私は、異言を語る牧師から聖霊のバプテスマを受けていないということで見下されるような思いを2、3回味わったことがあります。人を見下すことが愛の業ではないことは明らかです。
私の中に芽生えた確信、それは聖霊に導かれて神さまの言葉に生きることの大切さです。これしか愛の実を結ぶ道はありませんし、肉の性質に打ち勝つ道もありません。私はそう確信しています。自力で愛の実を結び、肉の性質に勝つことは不可能です。それができるなら、福音は必要ありません。
デボーションは聖霊に導かれて神さまの言葉に生きる一つの方法です。聖書を思いめぐらし、自分に対する神さまの導きを受け取ります。そうは言っても、どうして聖霊に導かれていると分かるの? 神さまの導きを受け取るといっても、それが本当に神さまの導きだとどうして分かるの?という疑問が出されます。私は、聖霊が導いてくださっていると信じ、神さまの導きを与えてくださったと信じてこれと取り組んでいます。
1994年6月、生ける神さまを知りました。1995年9月、聖霊が私のうちにおられるとの確信に導かれました。1996年1月、超教派の集会でデボーションを知りました。これら一つ一つは私にとってかけがえのない神さまの導きであったと信じています。