クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の教えは守らなくていい?

 私は多くのクリスチャンが神さまの教えを守らなくてはならないと語るのを聞いてきました。そしてそう語る人は、喜んで語ってはいません。むしろ守らなければならないと考えることが重荷になっているように思いました。「なぜ守らなければいけないと考えるのですか」と聞いたことは実はありません。人の心に踏み込むことを避けたいと思ったからです。でも今は軽い気持ちで聞いてもよいのではと思っています。

 なぜ、神の教えを守らなくてはならないと考えるのでしょうか。私自身、牧師なんだから、あれをしなければ、これをしなければと色々考え、重荷に苦しんだことがあります。それを実行しないと牧師として失格するように考えました。「~しなければならない」と考えることを律法主義と言います。義務感で自分を縛り付けます。

 私たちは信仰によって救われます。イエス・キリストを信じることによって救われます。だから救われるために神さまの教えを守らなければならないと考える必要はありません。イエス・キリストを信じれば救われます。だから、救われるために守らなければならないと考える必要はありません。だから私は、「守りたくなければ守らなくていいんですよ」と話します。「そんなことを言っていいの」と思われるかもしれません。大切なのは、なぜ神さまの教えを守るのか、その理由です。

 そもそも神さまはなぜ、教え、戒めを与えたのでしょうか。神さまの教えは、それを行う者に祝福を与えます。それは守ったことへのご褒美ではありません。神さまの戒めは祝福を含んでいるのです。「殺してはいけない」「盗んではいけない」。もし殺人や盗みがなくなれば、私たちは安心して生きていけます。安心、これは祝福です。神さまの教えはそれ自体が祝福をもたらすものなのです。

 「守りたくなければ守らなくていいのです」。しかし守らなければ、それを守ることによって得られる祝福を失うことになります。守るか守らないか、それはあなたの自由です。神さまの御心は私たちが教えを守ることによって祝福を得ることです。

 神さまの教えは私たちに祝福をもたらすものと考えたいです。そして守らなければならないと考える不自由から解放されましょう。

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