クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(14)律法の下に生きる

 キリスト者は地上の生涯を終えると神の国、神さまのもとに行きます。住む場所が変わります。それと同じように私たちがキリストを信じ、キリストに結ばれると住む場所が変わります。地上での生活を続けることには変わりありませんが、住む場所を変えます。

ローマ 6:14
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

 キリスト者は「律法の下」から「恵みの下」に住む場所を変えます。これはとても大切なことです。このことを意識しないと、混乱した信仰生活を送ることになりかねません。自分は律法の下に生きているのか、恵みの下に生きているのか、振り返ることは有益です。

 今日は「律法の下」に生きることがどういうことかを考えます。律法は神の戒めです。律法は言うのです、「神の戒めを守りなさい。律法を守れば祝福を受けます」。しかし守らないと「守っていませんね。罪を犯していますね」と責めるのです。そこで「律法の下」に生きている人は律法を守らなければいけないと考えます。その努力をします。

申命記 30:15~18
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。

 神さまの戒めに従えば祝福されます。従わなければ滅びるとあります。そこで人は当然、神さまの戒めは守らなければならないと考えます。人は律法を守り、祝福を得ようと考えます。人は努力して幸福を得るという考え方は信仰の有無を問わず、世の多くの人が抱いている考えだと思います。

 「律法の下」に生きるとは、一般的に言うと「~しなければならない」という考えに従って生きることになります。そこで神を信じる信仰者は、神の戒めに従うのは義務であると教えられたりします。

 聖書が語る救いは、滅びからの救いです。神の教えに背けば罪を犯すことになり、罪に対して神の怒りが現れると聖書は教えます。

ローマ 2:5
この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

 そこで人は一生懸命神さまの戒めを守る努力をし、自分は救いに入ることができるという確信を求めて歩みます。そのような人が聖書に登場します。主イエスのもとに一人の青年が来て主イエスに質問します。

マタイ 19:16
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。

 すると主イエスは「掟を守りなさい」と語ります。彼は「どの掟ですか」と尋ねると主イエスは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、隣人を愛しなさい」と答えます。するとその青年は「それらのことはみな守ってきました」と答えています。

 人は神の戒めを守って祝福される、救いに入れられると考えます。だから神さまの戒めを守らなければならないと考えます。このように考え生きている人たちは「律法の下」に生きているのです。「律法の支配下」に生きるということができます。

 ある意味窮屈な面もありますが、自分は神の戒めを守っていると考えることができれば、自分を誇ることができます。立派に生きているということもできます。

タカネスミレ 秋田駒ヶ岳 2018.7