クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(26)ぶどうの木の枝のイメージ

  • キリスト者は律法に背いても罪をとがめられず、罪の責めを受けません。
  • キリスト者は神を知り、神を喜び、神を誇ります。
  • キリスト者は神の戒めを喜んで進んで行いたいと考えます。
  • 神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります。

 このようなキリスト者になるために、自分はぶどうの木の枝と考えるのもよいと思います。ヨハネ福音書15章にある主イエスのたとえです。

ヨハネ 15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

 主イエスがぶどうの木であり、私はその枝です。私は枝としてぶどうの木である主イエスにつながっています。この私には三つの約束が与えられています。主イエスは父なる神のことをぶどう園の農夫にたとえられました。

15:2
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

 ここには、農夫である神は枝を手入れしていよいよ豊かに実を結ぶようにしてくださるとの約束があります。

15:4
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

 私が主イエスにつながるなら、主イエスは私につながってくださると約束してくださいます。主イエスの方から手を離し、私を放り出すことはないとの約束です。私がつながる限り、主イエスはつながっていてくださるとの約束です。

15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

 私たちが主イエスにつながるなら、実を豊かに結ぶとの約束があります。私たちは、神さまを喜び、神の御心を行うキリスト者となることを実として期待することができます。

 私たち信仰者は、立派なキリスト者となるために頑張る必要はありません。いや、頑張る必要はあるかもしれません。問題は何を頑張るか、何を努力するかです。何もかも自分で行うとしたら大変です。

 信仰者には神さまの約束が与えられています。信仰者がする努力は、信じる努力です。信仰には疑いが影として伴いますから、信じる努力が必要です。そして信仰とは神の約束を信じることです。

 私がぶどうの枝だとします。どんな努力をすればいいのでしょうか。ぶどうの木につながる努力、よい実を結ぼうとする意志を持つことです。そうすれば、農夫である神が実を結ぶように手入れをしてくださり、ぶどうの木である主イエスが実を結ばせてくださいます。

 約束を信じ、その約束に生きようとするとき、神さまが、主イエスが実を結ぶように導いてくださいます。ありがたく、感謝なことです。

 私はぶどうの木の枝、実りを約束されている枝です。

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