クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.6.13)
聖書 ヨハネ 12:24 死に直面してもなお生のすばらしさを信じている


 「死に直面してもなお、生のすばらしさを信じている。この世のものを愛おしみ、かつこの世のものに縛られないと感じている」というテーマで先週お話ししました。その時「生の素晴らしさを信じている」という部分を

「死に直面してもなお、喜びと感謝をもって生きることができると信じている」

と言い換えました。そして「喜びと感謝をもって生きることは、神が私たちに望んでおられることである」ことを聖書から確認しました。言い換えると、これが可能であると神は約束しておられるということです。そして、喜びと感謝は、それを目指して与えられるものではなく、何かを目指して生きている時に、添えて与えられるものであることもお話ししました。たとえばイチローや松井選手のように一生懸命打ち込んでいる時に、喜びが与えられるとお話ししました。私たち信仰者の場合、神のみ心に歩む時、喜びと感謝は添えて与えられるとお話ししました。今日は、その続きです。


 死に直面して、喜び、感謝を持てるには、やはり死を越える希望を持つことが必要です。死を越える希望がないのなら、喜びと感謝を持つことは簡単ではないと思います。意義ある人生を送ることができたと思える人は、比較的死を受け入れやすいと言われています。平安な気持ちで死を迎えられることは素晴らしいことだと思います。私たちは死に直面してもなお喜びを持てること、そして感謝を持てることを考えたいのです。いや考えるだけでなく、それが可能であることを聖書から教えられたいと願います。


 多くの宗教は、死を越える希望を教えます。仏教では極楽とか浄土を教えます。キリスト教では、天国とか神の国と呼びます。私たちは普通、これらはこの世とは全く違う世界、この世とは断絶した世界と考えます。私たちは、死ぬ前には向こうの世界に行くことはできないし、死んだらこちらの世界に戻ってくることはできないと考えます。この世と神の国は断絶をしていると考えます。またこの世と大して違いがないとしたら、希望となりえません。


 確かに死は、この世における人生といわゆる向こうの世界における生活をはっきりと分けます。この世と向こうの世界は、死によって断絶していることは確かです。しかし聖書を読んでいくと、私たちの人生は、神の国を目指す旅であり、私たちの人生は死で終わり、これまでの歩みと全く無関係な向こうの世界に行くのではないことがわかります。この世における私たちの人生と神の国は、死によって断絶しています。死ななければ、私たちは神の国には行けません。しかし、この世の人生と神の国は、つながっているという面もあるのです。


 つまりこの世の信仰者の歩みは、神の国を目指す歩みだからです。ですから、信仰者として神の国を目指す歩みをする人は、死んだらこの世の歩みとは全く無関係の理想郷に行くわけではなく、むしろ目的地に着いたという喜びを得ることができるのです。死は、目的地である神の国の入り口であり、扉であるということができます。この世を去るという点で、親しい者たちとの別れがあるという点で、死は寂しく悲しい面がありますが、死は信仰者にとっては待ち望んでいた目的地に到着する喜ばしいものなのです。この喜ばしさがあるので、死に直面しても私たちは、喜びと感謝をもって生きることができます。


 人生は、神の国を目指す旅です。それは旧約聖書出エジプトの出来事から私たちは教えられます。旧約聖書出エジプトの出来事は、単なる過去の出来事ではありません。私たちの救いが何なのか、救いの本質を示す一つのモデルなのです。一つの影なのです。影と言ったのは、本体があるからです。本体とは、イエス・キリストによる救いです。


 出エジプトの出来事、それはエジプト王による支配からの解放の出来事でした。イスラエルの民はエジプト王の支配の下、エジプト王の奴隷として苦しんでいました。奴隷としての苦しみからの解放、エジプト王の支配からの解放、それが出エジプトの出来事でした。そしてイエス・キリストが与える救い、それは罪と死の支配からの解放です。イエス・キリストの十字架の死は、罪の赦しを与えるものです。イエス・キリストによる救いは、罪の赦しだけではなく、罪と死の支配からの解放であり、罪と死の支配からの自由です。ですから私たちは、死を恐れることなく、限りある人生を喜んで生きていけるのです。罪の支配の下でいつも自分を責めたり、自分を卑下したりすることなく、罪から清められた新しい心で喜んで生きていけるのです。


 また出エジプトの出来事において、エジプトを去る前の晩、神はイスラエルの民に小羊を屠り、それぞれの家の入り口を血で塗るように命じました。神は家の入り口に血が塗ってある家とそうでない家を区別したのです。血の塗っていないエジプト人の家では、その家で最初に生まれた子供が皆死ぬという災いが起きました。この災いを見て、エジプト王はイスラエルにエジプトから出て行くように命じました。そしてイスラエルは解放されたのです。イエス・キリストは十字架で死にました。十字架で流されたイエスの血、それはわたしたちの救いとなりました。そこでイエスは神の小羊とも呼ばれます。解放という救いのために流された血という点で同じだからです。


 出エジプトにおけるイスラエルの民の救いとイエス・キリストによる救いは同じパターンなのです。エジプトを脱出したイスラエルの民は、自由に生きることができる土地、乳と蜜の流れる豊かな土地に向かって旅をしました。40年の後にイスラエルは神が与えると約束した土地、乳と蜜の流れる土地に到着しました。その40年間は、約束の地を目指す旅でした。信仰によって歩む旅でした。同じように、私たちも神の国を目指して、信仰の旅を続けるのです。出エジプトの出来事は、救いのモデルなのです。だから、私たちの人生は、神の国を目指す旅であることがわかるのです。


 イスラエルの民は40年の間、飢え渇いたり、敵の攻撃を受けたり、困難に直面しました。でもそれは、神に信頼する信仰を育てるためのものでした。イスラエルの民の中には、何で自分たちは苦しい目に遭うのだ、神はなぜ我々を苦しめるのだと不平を言う者もいました。しかし、試練は信仰を育てるために用いられたのです。


 皆さんは、出エジプトの出来事をわたしたちの救いのモデル、ひな型と考えて読まれたことがあるでしょうか。こう考えるととても興味深く読むことができます。


 イスラエルの民の旅は、目的に向かって「歩く」だけのことです。彼らの旅の場合、昼間は雲の柱、夜は火の柱が先頭に立って彼らを導きました。つまり神が導きました。では私たちは、神の国を目指す旅において何をするのでしょうか。


 それはこの世界に対する神の御旨を行っていく旅と言えます。この世界に対する神の御旨とは人間が救われ、神を信じて、神を愛し、人を愛していくようになることです。それは言い換えると神の素晴らしさを表現していく歩みと言ってよいでしょう。それは具体的に何かと言われたら、イエスの言葉から明らかにすることができます。イエスは神の教えを要約して、

「神を愛すること、隣人を自分のように愛すること」(マタイ22:37〜39)

と教えました。ここから、まず神を愛すること、言い換えると神を礼拝することが一つ。隣人を愛する、つまり人に仕えることが一つ。イエスが天に帰る前に弟子たちに言い残した教えがあります。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19〜20)。

 この教えから、伝道することが一つ、信仰者にイエスの教えを実行するように指導すること、つまりキリストに似た者となることが一つ、洗礼を授け、神の家族を築き、愛し合うことが一つ。

  1. 礼拝
  2. 愛し合う神の家族の形成
  3. キリストに似た者となること
  4. 自分の賜物を用いて人に仕えること
  5. 伝道をすること。

 この五つが神の御旨ということができます。私たちはこれらの働きに励みながら、神の国を目指すのです。

 ここで大切なことは、わたしたちの日々の生活に対する考え方です。誰にとっても日々の生活は大切です。私たちにとって生活は、実は、神の御旨を行うための手段だということです。日々の生活を通して、神の御旨を行うのです。そして日々の生活が神の御旨を行うために用いられる時、喜びと感謝が添えて与えられるのです。人生とは、私たちの願い、目的が実現するものではなく、わたしたちの生活を通して、神の御旨が実現していく、と聖書は教えています。それは主の祈りの中で「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」とある通りです。私たちを通してみ心が地になるようにとの祈りです。私たちの生活は、神に用いられる生活なのです。


 私たちが日々生活する時、日々の行いが、どのように神の御旨を行うことにつながるのかを考えて生きるのです。そのようにして生きる、それが神の国を目指す旅となるのです。そのために聖書を読むことが必要となりますし、聖書を読むことが喜びとなります。このように生きる人が聖徒なのです。


 このようにして神の国を目指す時、繰り返しますが、喜びと感謝が添えて与えられるのです。私たちの生活の中で起きることで何一つ無駄なことはなく、神の許可の中で起きたことであり、神の御旨を行うことにつながるからです。皆さんは自分の生活をどのように考えていますか。


 ただ苦労が多いだけ、生きていくのが精一杯だけ考えておられますか。それではあまりにも惨め。まあまあ良い人生だったと自分を納得させますか。


 イエスは「はっきり言っておく」と強調しながら、一つのことを話されました。

「一粒の麦は、地において死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24〜25)。

 麦の種は地に蒔かれないなら、種のままで実を結ぶことはありません。しかし土に蒔かれるなら、種から根が伸び、芽が出て葉が生え、やがて豊かに実ります。土の中の種が死ぬとは、種は自分の体が養分として使われ、体が消えてしまうことを意味します。種は自分を犠牲にして、麦を実らせます。そのようにイエスは、自分の死が、人々の救いとなることを告げています。十字架の死、それは神の御旨に従う道でした。同じように、人もまた神の御旨に従う道を歩む時に実を結ぶことをイエスは語られます。


 私たちが神の御旨を行う道を歩む時、私たちの生活が神の国を目指す旅となる時、私たちは、この世のものを楽しみながら、この世のものに執着しない自由を得ることもできます。一番大切なものを大切にする人は、2番目以下のものに執着しない自由を持つことができるからです。


 余命に限りのあることを宣告された若い父親のことを前回話しました。彼には妻と幼い子供がいました。「死に直面しなお生の素晴らしさを信じている。この世のものを愛おしみ、この世のものに縛られない」というのは、信仰がなければ難しいことだと思います。信仰があれば、家族のことを神にゆだねることができるでしょう。


 自分の死を受け入れることは若ければ簡単ではないでしょう。しかし、限りある時間を愛する家族との交わりに過ごす時、そして神に残される家族のことをゆだねる時、己の死を受け入れ、家族を与えられたことを神に感謝しつつ、そして神の国の希望に立って死を迎えることができるのではないでしょうか。もし私が若い父親だったら、そのように生きたいと思っています。


 「死に直面してもなお、生のすばらしさを信じている」。このような生き方を神様は用意してくださっているのです。


祈り

 恵み豊かな天の父、私たちの人生は神の国を目指す旅です。あなたがこの旅を喜びに満ちたもの、感謝に満ちた者としてくださることを信じます。イスラエルの民が約束の地を目指した時、困難がありましたが、いつもあなたが助けの手を伸べてくださいました。あなたがおられることがどんなに励みであり、喜びであったことでしょうか。私たちもまたあなたと共に神の国を目指す旅を歩みます。信仰の弱い私たちを憐れみ、支え、この旅を全うさせてください。
 そして死に直面した時も、あなたと共に歩んだ旅路を感謝をもって喜び、目的地である神の国に近づく時の来たことを覚えて喜びを新たにさせてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。