聖書 ルカ 8:4〜10
説教 見ても見えず
→聖書には、わかりにくい箇所があります。
- どう理解したらいいのか、わかりにくいのです。
- 今日の聖書の箇所は、その一つの例ではないでしょうか。
- 今日の聖書で主イエスはなぜたとえで話すのか、その理由を述べています。
- 「彼らが見ても見えず、聞いても理解できないようになるためである」とあります。
- たとえで語るのは、聞く人たちが理解できないようになるため、というのです。
- 普通話すのは人に理解してもらうためです。
- それなのに聞き手が理解できないようになるためであるというのです。
- これは一体どういうことなのか、戸惑います。
→今日の聖書で主イエスは、種まきのたとえを話しました。
- ある農夫が種を蒔きに畑に行きます。
- ある種は道ばたに落ち、人に踏みつけられ、鳥に食べられました。
- 他の種は、石地に落ち、芽は出しましたが、水気がないので枯れてしまいました。
- 他の種は、茨の中に落ち、茨も一緒に伸び、実を結ぶことがありませんでした。
- しかし他の別の種は良い土地に落ち、100倍の実を結んだとあります。
- 無駄になる種はありますが、多くの実を結んだという話です。
→これは当時の農作業の様子を描いたものです。
- これを聞いて、人々はどう思ったのでしょうか。
- たとえで語られていることは分かります。
- しかしそのたとえが何を言おうとしているのか、聞き手は分かりません。
- 言いたいことを正面からずばり語れば良いのにと思いますが、
- イエスはたとえで語りました。
- たとえの最後で「耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。
- これは命令です。
- おそらく、この「耳のある者は聞きなさい」という言葉は重要です。
→「聞く耳のある者は聞きなさい」。
- 私たちは時に「あの人は聞く耳を持たない」と言うことがあるのではないでしょうか。
- 話す人が何を言おうとしているのかを最後まで聞こうとしないのです。
- 話す人が言おうとしていることを汲み取らないのです。
- 語る人がどんな気持ちで話しているのか、理解しようとしないのです。
- 話す人の言葉の表面しか聞かないのです。
- だから「もうおまえの言いたいことは分かった」などと言うのです。
- でもちっとも分かっていないのです。
- それが「聞く耳を持たない」と言うことです。
- 主イエスは「聞く耳を持ちなさい」と言いました。
- 私が何を言いたいのかを聞き取りなさい、という意味です。
- 確かにたとえは何を言っているのか分からないかも知れない。
- しかしたとえを通してわたしには言いたいことがあるのです。
- それを聞くようにとのイエスの気持ちが表れています。
→そこで弟子たちは主イエスに聞くのです。
- 「このたとえはどんな意味ですか」。
- 主イエスは答えます。
- 「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」。
- ここでは二つのことが分かります。
- 第一に、このたとえは、神の国に関係があることです。
- 第二に、たとえで神の国について語ろうとしているということです。
- たとえというのは、何かを指し示すものです。
- 主イエスは神の国について語りたいのです。
- 神の国といっても漠然としているし、理解しがたいです。
- この世界にあるものではありません。
- そこで神の国がどんなものかをたとえで語るのです。
- たとえでわかりやすく語ろうとするのです。
- たとえというのは、それ自体は分かりやすいものです。
- しかしたとえが、何を指し示しているのかが明確にならないと
- たとえが何を言おうとしているのかは謎になります。
→主イエスはなぜ、たとえで語るのか、説明します。
- それは聞く人たちが、
- 「見ても見えず、聞いても理解できないようになるためである」というのです。
- 理解できないようになるために語る、それは変です。
- 本当なら、理解してもらうために語るのです。
- それなのに、理解できないようになるため、というのは奇妙です。
→「見ても見えず、聞いても理解できない」。
- これはどういうことなのでしょうか。
- これは信仰を持って聞かなければ理解できないという意味です。
- 自分で理解しようと思っても理解できないという意味です。
- 自分の経験、自分の思いや考え、常識では理解できないという意味です。
- 自分には分からないことを主イエスが語るのだから信仰を持って理解したいと人々に考えてもらいたく、イエスはたとえで語るのです。
- たとえは謎めいています。
- 聞いた人はそこで立ち止まるのです。
- 今聞いたこれは何のことか。
- 神は昔エゼキエルという預言者にこう言いました。
- 「人の子よ、イスラエルの家に向かって謎をかけ、たとえを語りなさい」。
- 神の国は、この世に存在していて、指させば理解できるというものではありません。
- 人間の思いを越えたもの、人間の理解を超えたものです。
- 人間の思いを越えたものをどう語ればいいのでしょうか。
- だからたとえで語るのです。
- 聞く耳を持たないと分かりません。
- 聞くものが、そうか、これは信仰を持たないと理解できないのだ、
- と気づくようになるために、イエスはたとえで語られたのです。
- 理解したいと思う者は、このたとえで主イエスは何を言おうとしているのか、
- 立ち止まって考えるのです。
- 神さまのご支配について語ろうとしているのです。
- 生きて働く神について語ろうとしているのです。
- 主イエスは、人々が神を見るように語ろうとしているのです。
- もちろん神は見えません。だから信仰で見るのです。
- そもそも神は見えません。
- 信仰は、人間の現実の中に神の働きを見るのです。
- そのようにして神を見ることを語ろうとしているのです。
- それが「見て、見る」と言うことです。
- 現実を見て、その背後に神がおられることを見なければ
- それは「見ても見えず」ということなのです。
→昔のイスラエルの民はまさに見て見ない人たちでした。
- 彼らは昔、エジプトで奴隷として苦しい生活をしていました。
- 神に助けを求めて叫びました。
- 神は彼らの叫びに応え、様々な奇跡を行い、エジプトから救い出しました。
- 彼らはエジプトを去り、神が与える約束の地を目指して旅をしました。
- そこは肥沃な土地であり、豊かな生活ができる土地でした。
- そこに行く前の旅の途中で困難が生じると彼らは不平を言い、文句を言うのです。
- 挙げ句の果てにはエジプトにいる方がよかったなどと言い出すのです。
- 彼らは、エジプトから彼らを救い出す神を見たはずなのに、
- 旅の困難の中で、神を見ようとしないのです。
- 彼らはエジプトでの奇跡、神の働きを見たはずなのに、見ていなかったのです。
→聖書は「神の言葉だ」と言います。
- 聖書を書いたのは人間です。
- 聖書に基づき説教をするのは人間です。
- 聖書を読むとは、人間の書いたものを読む行為です。
- 説教を聞くとは、人間の話を聞く行為です。
- 人間が書いたものを読む、人間が語るのを聞く、
- それらの背後で神が語っていると考える、
- それらの背後で神が語っていると信じる、
- これが見て見るということです。
- しかもわたしに向けて語られていると信じる、
- これが見て見るということです。
- つまり神の語りかけを受けとめるのです。
- 聖書は人間が書いた書物として読むなら、
- あるいは説教を人間が語るものとして聞くならば、
- 神が語りかけているということを見失うことになります。
- 読んでいるのに、神が語るのを読み取れない、
- 聞いているのに、神が語りかけているのを聞き取れない
- これが「見ても見えず」ということです。
→実は信仰者だって見ない人、聞かない人、悟らない人は沢山いるのです。
- 私は聖書の言葉を知っていますと彼らは言います。
- でも聖書の言葉を生きていないのです。
- 聖書の言葉を実行しないのです。
- 聖書の言葉がどのような力を持っているのか知ることができないのです。
- 知ろうとしないのです。まさに「見ても見えず」なのです。
- 聖書の言葉に従うと何が見えるのでしょうか。
- 神が生きて働かれることが分かるのです。悟るのです。
- 神の言葉が、私どもを生かすと言うことが分かるのです。
- 神の言葉なしに生きていこうとは思わなくなるのです。
- 聖書をあまり読まない信仰者もいます。
- 聖書を読んで、今日のおつとめを果たしたと考える信仰者もいます。
- いずれも、「見ても見えない」という言葉が当てはまります。
→見ても見えなくならないためにはどうしたらいいのでしょうか。
- 主イエスの譬えを聞いた人は、主イエスからもっともっと話を聞くのです。
- その意味を尋ねるのです。弟子たちはそうしました。
- では私たちはどうしたらいいのでしょうか。
- 神さまが私に語りかけてくださる、そう信じて聖書を読むのです。
- 神さまが私を導こうとしておられる、と信じて読むのです。
- 聖書を読んだら、そこに書かれていることを自分に結びつけて実行することです。
- 説教を聞いたら、神は自分に何を語りかけられたのかを考えることです。
→神は、神の国へ人々を招こうと主イエスをこの世に遣わしました。
- そして聖書を人間に与えました。
- そして説教者を通して、聖書の説き明かしをさせます。
- 神は私どもに語りかけておられるのです。
- 神の言葉を聞いて生きるように、神は私どもに語りかけているのです。
- 聖書を通し、説教を通し、神は語りかけているのです。
- それを見るか見ないか、聞くか聞かないか、それが分かれ道です。
- 神は、神の国に生きるように、神のご支配の中を生きるように、語りかけているのです。
→神は言うのです。
- あなたが読むのは、私の言葉です。
- あなたが聞くのは、私の言葉です。
- あなたは私の言葉を聞いて生きていこうとしていますか。
→神の言葉を聞くには、信仰が必要です。
- 神はあなたに確かに語りかけるかたであるという信仰が必要です。
- この信仰を持つなら、あなたは神を見ることができます。
- あなたは、神の声を聞くことができます。
- 「聞く耳のある者は聞きなさい」。
- これはあなたに向けられた言葉です。
天の父、あなたを崇めます。
あなたは見えませんが、あなたがおられることを信じます。
あなたの声は耳に聞こえませんが、心で聞くことができると信じます。
あなたの姿は目に見えませんが、あなたのみ業を見ることができると信じます。
信仰の目であなたを見、信仰の耳であなたに聞くことができますように。
そしてあなたが生きて働かれる神であると知ることができるように導いてください。
私たちは目で見えない者は信じようとしない世界に生きています。
見えないものは信じない、これは頑なな心です。
私どもの頑なな心を打ち破り、あなたを知る者となれるように助けてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。