クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の御支配の中にあると考える

(クリスチャンの成長(54)キリストに結ばれて- 12)

ロマ 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 

  「考えなさい」。とても大切です。私たちは罪に対して死んだので、今や罪の支配する領域・領土にはいません。私たちは神の支配する領域・領土に移り住んだのです。私が聖書の「救いのモデル」と考える出エジプトの出来事は、示唆に満ちています。

 奴隷としての苦しみの中からイスラエルの民は神に助けを求めて叫びました。神は言います。

出エジプト記 3:7~8
わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

 神はイスラエルの民をエジプト王の支配から救い出すこと、「広々としたすばらしい土地」つまり自由に生きることのできる地へ連れて行くと約束されました。

 神はエジプトの国で大いなるわざをいくつも行った結果、エジプトの王はイスラエルの民をエジプトから追い出します。イスラエルの民は解放されたのです。そしてイスラエルの民はエジプトを出て神が与えると言われた地を目指して旅を始めます。

 イスラエルの民は、エジプトの王の支配する領域・領土から出て、神の御支配の領域・領土に生きるようになりました。イスラエルの民がエジプトにいる時から、神はイスラエルの民を神の御支配の領域・領土の移されました。神はエジプト王やエジプトの民に大いなる災いを下されましたが、イスラエルの民は災いから守られました。そしてイスラエルの民は約束の地へ向かって旅をします。

 神は約束の地に連れて行くと約束されました。つまり約束の地に行く途上で何があっても、神はイスラエルの民を守り、連れて行くということです。イスラエルの民は、自分たちは神の御支配の領域・領土に生きていると「考えるべき」なのです。

 イスラエルの民は約束の地を目指して荒野を旅します。試練が訪れます。エジプト軍が追いかけてきます。飲み水がなくなります。食べ物がなくなります。するとイスラエルの人々は不平を言い出すのです。そしてモーセに文句を言い、神に文句を言います。「なぜエジプトから私たちを導きだしたのですか。エジプトに墓がないからですか。荒野で死なすためですか」。モーセは神に祈り、神の助けを求めます。神は奇跡を行い、イスラエルの民を助けます。

 イスラエルの民は自分たちが神の御支配の領域・領土にいるので、困難に直面しても神の助けを求めればよいと考えることができませんでした。そこに彼らの失敗がありました。彼らは試練に遭うたびに文句を言いました。彼らが試練に遭うたびに神は彼らを助けました。約束の地を前にしたとき、最後の試練に際しても文句を言った人たちは約束の地に入ることができませんでした。

 信仰に生きる者にとって大切なことがあります。自分が何者で、どのような立場に置かれているのか、聖書が告げることを受け入れ、聖書が告げるとおりに考えることです。

 私たちは罪に対して死に、罪の支配する領域・領土を去り、神の御支配する領域・領土に移り住んだのです。そう考えなさいと使徒パウロは勧めます。イエス・キリストを信じる人は、もはや罪の支配する領域・領土にはいないのです。神の御支配する領域・領土にいるのです。これがキリスト者の立場なのです。これが自分の立場であると私たちは考えるのです。「わたしはあなたと共にいる。私は必ずあなたを守る」と神は語られます。キリスト者は、神に守られる立場にいるのです。

 これは私たちが実感できることではありません。実感は関係ありません。実感で物事を考えると、イスラエルの民のように神に信頼できなくなります。聖書が告げることを真理と考える、受け入れる、それがキリスト者です。神の御支配する領域・領土にいる、これがキリスト者の立場です。この立場に自分がいると考える、ここから信仰者の生活が始まります。

 

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迫力のある花です 馬見丘陵公園にて