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隠退牧師 holala によるブログ

人間、罪深きもの(2)矛盾した存在か?

?マルコ 7:20~23
人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。

 神はご自身に似せて人間を造られました。神が造られたものすべてをご覧になり良かったと言われました。同時に人間は罪深い者であると聖書は語ります。もちろん、罪深い者が良いはずはありません。この矛盾をどう考えたらよいのでしょうか。

 それを解く鍵は人間自身と人間に与えられた自由にあると考えます。

 まず人間自身について。人は神に似せて造られました。その意味で人間は光栄ある存在です。人は神を映し出す存在だからです。しかし神と違い、人間は限界を持つ存在です。たとえば命には寿命があります。能力にも限界があります。能力という時、さまざまな面での能力があります。比較的能力があるといえる事柄があり、能力に乏しい事柄もあります。人には得手不得手があり、また長所と短所もあります。

 人間は限界を持つ存在です。そしてこの限界を人は受け入れるとは限りません。むしろ受け入れることができないと思います。するとどうなるのでしょうか。

 たとえば自分より能力のある人がそばにいたとします。その人を妬むかもしれません。その人の欠点を見つけて悪口を言うかも知れません。場合によっては憎むかもしれません。その人を陥れようとするかもしれません。黙って我慢するかもしれません。人間が自由であるということは、色んな思いが心に湧いてくるということです。

 自分より裕福な人がそばにいたとします。嫉妬するかもしれません。そして自分もと張り合い、盗みを働くかもしれません。人をだましてお金を儲けようとするかもしれません。

 すてきな女性がいたとします。みだらな思いが湧いてきて、あらぬ妄想に耽(ふけ)るかもしれません。彼女に働きかけても冷たくされるだけだと憎しみが湧いてきて、暴行を働くかもしれません。妻がいるのに、浮気をするかもしれません。

 自分より劣った人を見れば自分を誇り傲慢になって威張ったりするかもしれません。地位を得れば、部下を叱ったりいじめたりして優越感という密(ひそ)やかな楽しみを得るかもしれません。

 人間は限界を持つ存在です。そして自由な存在です。他者を見て、自分と比較するとき、色々な思いが心に湧いてきます。良い思いが湧いてくることは少なく、多くの場合悪い思いが湧いてきます。それだけで心の平安はなくなったりします。キリスト者が「私は罪深いものです」と告白するのは無理もないことと言えます。

 私は思います。人間が神に似せて造られ自由な存在であることと、心に悪い思いが湧いてくることは硬貨の裏表の関係のように思えます。では神さまは人間をこのように「危ういもの」として造られたのでしょうか。それは違うと思います。(明日に続く)

ナツハゼ 近所の山で