クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

主われを愛す(2)

わが罪のため さかえを捨てて
天よりくだり 十字架につけり
わが主イエス わが主イエス
わが主イエス われを愛す

 「わが罪のため・・・十字架につけり」。たった二行に私たちの救いが語られています。

 最初に自分の罪を知ったとき、自分の理性で自分の罪を認めたというより、むしろ罪を思い知らされたいうべきでした。聖霊によって自分の罪を知らされたということができます。神の裁きを受けても仕方がない、そう思いました。神の裁きを受けるのはもちろんいやです。その時、キリストが十字架の上で、自分を犠牲にし、私たちを罪から救ってくださいましたと礼拝で聞いていた言葉が思い出されました。それが洗礼を受けるきっかけとなりました。

 「さかえを捨てて」。イエス・キリストは天において神の子です。そして神です。神であるという「栄光」「名誉」を捨てて、一人の人間としてこの世においでになりました。そして十字架の死を遂げられました。あの十字架の死、それは人を救うものだというのです。驚きです。人は大きな価値あるもののために自分の命を犠牲にすることがあります。理想のために、自由のために、国のために、キリストのために。でも私という取るに足りない者のために、誰が自分の命を犠牲にしてくれるでしょうか。神の子イエスが命を犠牲にしてくださるなんて、驚きです。

 主イエスを救い主と信じ、私は罪赦され、義とされました。神さまは、私を義と認めてくださるというのです。私は自分が罪深い者であることを知っています。しかし神さまの目には、正しい者なのです。神の目に正しい者とされている、それを私は喜びます。そして主イエスが「さかえ」を捨ててくださったからには、救いの恵みがどれほど大きいのかに、私は目を留めます。

 私はイエス・キリストを信じ、新しい命を与えられ、新しく生まれ、神の子とされました。そして神の恵みの支配下に生きることができます。罪の奴隷から解放され、罪とたたかい、罪に打ち勝っていきることができる者とされました。そして御国を目指すこの世の歩みをすることができます。何と幸いなことでしょうか。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。
(ヨハネの手紙一3章16節)