クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

今年のクリスマスは、無牧の教会の方々と共に迎えました。23日の夜は賛美礼拝、24日はクリスマス礼拝。両礼拝で御言葉の御用を与えられました。24日の夜は奈良高畑教会の賛美礼拝に一人の会衆として参加しました。クリスマスの讃美歌を歌うと、あらためて救い主がおいでになったことを覚えて感謝と喜びを与えられました。クリスマスの喜びを分かち合いたく、以下、録音と原稿を用意しました。


聖書 ヨハネ 1:1〜5
説教 神の言葉に命あり
2017/12/24

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→今日はクリスマス礼拝を皆さんと共に献げています。
クリスマスは、救い主の誕生をお祝いする祭りです。
マタイ、ルカ福音書には救い主がお生まれになった出来事が描かれています。
いずれも不思議な仕方での誕生を描いています。
ヨハネ福音書は誕生物語は書いていませんが、
特徴ある内容を持っています。
救い主、それは人となられた神であると語ります。
救い主としてお生まれになったイエス様は、神の子であり、
しかも神であるとこの福音書は語ります。
それがどうして福音、よいニュースとなるのでしょうか。

→1〜3節は、哲学書に出てくるような文章でむずかしそうです。
「言」を「キリスト」に置き換えて読むと分かりやすくなります。
信仰者はキリストと置き換えて読むとよいと思います。
すると1節は「初めにキリストがいた。キリストは神と共にいた。キリストは神であった」となります。
2節は「このキリストは、初めに神と共にいた」となります。


→1〜2節はキリストが神であり、万物が創造される前から神と共におられたことを語ります。
これは三位一体の教えにつながっていきます。
キリストというのは救い主の意味です。
ヘブル語で救い主をメシア、ギリシャ語ではキリストと言います。
ですから救い主は、はじめから神さまと共にいたというのです。
14節で、「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」とあります。
つまり、キリスト・救い主は人となって、
私たちの間においでになったとの意味です。
人となられた方は、イエスと呼ばれる人物です。
ヨハネ福音書はこのイエスの活動を描き、
このイエスこそキリスト、メシア・救い主であることを伝えようとしています。
20章の最後には、こう書かれています。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。


→4節。「言の内に命があった」とあります。
「言の内に命があった」。
あるいは「キリストの内に命があった」。
短い文章なので、ああそうですか、と読み過ごしてしまいそうです。
ヨハネはなぜ、救い主・キリストには命があったと語ることができたのでしょうか。
それはヨハネがイエス様が救い主キリストであり、
エス様が、信じる者に命を与える方であることを知っていたからです。
ヨハネ自身、その命を体験したからです。

ヨハネ福音書に登場するイエス様は、ご自分についてこう語ります。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」(14:8)。
「わたしは命である」とイエス様は明確に語っています。
またイエス様は、こうも語っています。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(5:24)。
エス様はさらに、こう語っておられます。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。
エス様はご自身を「わたしは良い羊飼いである」と語り、
この羊飼いに養われる羊はいのちを受けると語られました。


→このようにヨハネ福音書に登場するイエス様は、ご自身を信じる者たちに命を与える方と考え、そのように語っています。
だからこのイエス様は、キリスト、救い主メシアなのだとヨハネは語るわけです。
そしてヨハネ自身は、このイエス様から命を与えられたと自覚しているので、
「言の内に命があった」と証しをしました。


→イエス様は、信じる私たちに命を与えてくださる方です。
私たちも命を受けています。
では命を受けている、この命に生きるってどういうことなのでしょうか。
ヨハネはイエス様を良い羊飼いとたとえ、その羊飼いについてこう書きます。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(10:27)。
羊飼いであるイエス様の声を聞き分け、イエス様に従う、
これがイエス様から命を授かった人の歩みです。
そしてイエス様の声を聞き分け、イエス様に従う人は、命を与えられて生きているとの自覚、そして喜びがあります。


→またイエス様は、わたしはぶどうの木とおっしゃいました。
そして
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)と語り、さらに
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(15:7)と語られます。
エス様から命を授かった人は、イエス様につながり、イエス様の言葉を心にとどめておく人だというのです。
そしてこのような人は、命を与えられて生きているという自覚、そして喜びがあります。


→イエス様から命を授かった人は、イエス様の声を聞き分け、イエス様に従い、
エス様につながり、イエス様の言葉を心にとどめる人です。
「言の内に命があった」とあるように
この命は言葉と結びついています。
私たちに即していうなら、
エス様から命を授かった人は、聖書の言葉によって生きる人ということができます。
聖書の言葉を神の言葉と見分け、
この神の言葉に従う人、
いつもこの神の言葉につながり、神の言葉を心にとどめる人、
その人こそ、イエス様から命を与えられている人です。
エス様こそ命の言葉、聖書こそ神の言葉、命の言葉なのです。


→4節後半、「命は人間を照らす光であった」。
これもまた証しの言葉です。
エス様は、「わたしは世の光である」と語ります。
この福音書を書いたヨハネは、
神の言葉は命であり、人間を照らす光であると証言をしています。
詩編119編105節にこういう言葉があります。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」。
神様の言葉は光として私の歩みを導くという言葉です。
ヨハネは正にこのことを実感しているのです。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。
ヨハネはこの4節の言葉を証しの言葉として書いています。

→また命というからには、命である神の言葉がなければ、自分は生きていくことができないという意味も含まれています。
私が若い時、死の恐れと生きることの空しさが私の心を支配していました。
そんなことはおくびにも出さず、仕事に励み、
人生を楽しんでいるかのように生きていました。
でも心はいつもうつろでした。
しかしイエス・キリストに出会い、救われました。
自分のために生きることをせず、人のために命を犠牲にするイエス様の生き方に驚きを覚えました。
でもそこに人間の真の生き方があるのではないか、と知らされました。
そして今は生きるよりどころとして聖書に親しんでいます。


→私は信仰を捨てたり、聖書を読むことをやめたりすることはできません。
聖書なしに私は生きていくことができません。
ですから私も告白することができます。
「聖書は神の言葉であり、命の言葉です。
私の人生を導く光です」と。

ヨハネは、キリストに命があり、キリストは人を照らす光であると証しをしました。
私たちもまた証しをする者でありたいと思います。
私たちは、聖書こそ、神の言葉であり、命の言葉であると証しをしたいと思います。
すると一つの問いが生じます
私たちは、なぜ、聖書を命の言葉と証しすることができるのでしょうか。


→まず聖書、神の言葉には、神さまの約束があります。
神の約束こそ、命の言葉です。
神さまの約束に私たちは立ちます。
たとえば永遠の命の約束。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
独り子であるイエス様を信じる者は永遠の命が与えられるとの救いの約束がここにあります。
救いの約束があるから、私たちは平安の中を生きることができます。
あるいは主イエスを信じる人は罪赦され、義とされる約束があります。
聖書はこう語ります。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。
義とされるとの神の約束があるので、私たちは神の裁きを恐れません。
神の罰が自分の身に降るなどと考えません。
私たちは自分が救われるか否か、心配したり不安になったりしません。
以上は救いの根本に関わる神の約束です。


→試練の中にある人たちへの神さまの約束があります。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1cor10:13)。
試練の中で、自分がどうなるのか分からない時、恐れと不安にとらわれます。
でも神さまは、逃れの道を用意してくださると約束してくださいます。
試練の中にあっても私たちは大丈夫なのです。
あるいは聖書に何回も出てくる言葉があります。
「わたしはあなたと共にいる」との神さまの言葉。
これも約束の言葉です。
困難な中にある時、恐れの中にある時、この約束が私たちを支えます。
慰め、また励まし、勇気が与えられます。
もし、これらの約束がなかったらどうでしょう?
注意して読めば聖書にはたくさんの神さまの約束があります。
今のあなたに必要な神さまの約束が聖書にあるとわたしは信じます。


→神の言葉は命の言葉です。
神の言葉は私を導く、命の言葉です。
箴言3:6。「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。
神さまは私たちの歩むべき道筋を真っ直ぐにしてくださるとの約束です。
どのようにして神さまは、私たちの歩む道筋を真っ直ぐにしてくださるのでしょうか。
私たちは日曜毎に説教を聞き、また日々聖書を読みます。
聞きっぱなし、読みっぱなしにしないでください。
説教や日々読む聖書を通して、
神さまは、私に何を語ろうとされるのかを思いめぐらしてください。
そうすると神さまの導きを得ることができます。
先ほど読んだ詩編をもう一度読みます。
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」。
神さまの言葉は、私の歩む道を照らし出すというのです。
暗闇の中を歩んでいるように思える時も、
神さまの言葉は、歩むべき道を照らしだします。
私たちに導きを与えてくださるのです。
導きを与えるゆえに、神様の言葉は命の言葉なのです。
神さまの導きがなければ私たちは、自分で選んだ道を歩み、
これでよかったのかといつも迷いの中に置かれます。
これで大丈夫という確信が持てません。
神さまの導きに従う人には、「万事を益としてくださる」との神さまの約束があります。
もし神さまが導いてくださるという約束がなかったらどうでしょうか。


→神の言葉は命の言葉です。
神の言葉は、私を祝福し、私を悪から守ってくれる命の言葉です。
聖書にはたくさんの神さまの命令や禁止の言葉があります。
神さまの命令の言葉、それは私たちを祝福に導く言葉です。
神さまの言葉に従う時、祝福が待っているのです。
神さまの警告、禁止の言葉、それは私たちを悪から守ってくれる言葉です。
もしこれらの言葉がなければ、私たちは簡単に誘惑に負けてしまうのではないかと思います。
モーセ十戒は、命令と禁止の代表的な神の言葉です。
神さまの言葉は、私を祝福し、私を悪から守ってくれるので、命の言葉です。

→最後に5節。
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。
イエス・キリストは光として暗闇の中に輝いているとあります。
神を知らずに生きている人々は、暗闇の中に生きています。
この人々は、自分の力で生きようとしています。
自分の力で生きようとしている人々が造り出す世界、
それは争い、対立の世界です。
強い者が弱い者を虐げる世界です。つまり闇の世界です。
自分の力で生きる人は、イエス様を理解しようとしません。
また理解できません。
私たちもこのような人々の中にいましたが
神さまの憐れみによって救いに導かれました。
命の言葉に出会いました。
クリスマスの喜び、それは命の言葉との出会いの喜びです。