ヨハネ14:6
「わたしは道であり、真理であり、命である」。
イエス様は命であるお方です。イエス様を信じ、新しい命、永遠の命に生きる人は、イエス様との関わりに生きる人であることが予想されます。パウロは、イエス様が自分の内におられ、生きていると語ります。
ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
命であるイエス様がわたしの内におられ、私を生かし、私は生きている、とのパウロの告白。イエス様が自分を生かしてくださっているとの思いを持つクリスチャンは少なくないと思います。それでパウロは次のように告白します。
フィリピ1:21
「わたしにとって、生きるとはキリスト」。
さらにパウロは自分が何のために生きるのか、次のように語ります。
ローマ14:8
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
新しい命を与えられて生きるとは、このような歩みを目指すことではないかと考えます。私たちがこのような歩みを目指すには理由があります。イエス様は十字架の上で死に、私たちの罪の贖いをしてくださったからです。イエス様のおかげで私たちは救われて今を生きることができるからです。イエス様の救いがないなら、今生きているといってもその行きつく先は滅びです。
このようなパウロに倣うことはすばらしいと思いますが、ハードルが高いと思う方も多いと思います。私もそう思います。しかし、その昔、富士登山は長い裾野を歩くことから始まったのです。標高の低い裾野を歩くことから富士登山は始まったのです。いきなり高みを目指すのではなく、まずは裾野から歩く、それでいいと私は思います。少しずつ上を目指すのです。