クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

列王記上13章

(内容)

 不思議な物語である。不信仰な王、偶像礼拝に走る王に対して神の裁きを伝える神の人が、自ら神の戒めを破り、自らの死を招いたという物語であり、神に背く者は裁かれるというメッセージを伝える神の人自身が、自ら神に裁かれる見本となったという物語である。


(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か

  • 神はみ心にかなわぬ者を裁く方である。神の人(預言者)を通して語られた神の裁きは実現する。

☆神が求める私たちの生き方

  • 神の言葉と偽りの言葉の区別は大切である。神の人は老預言者の言葉を神の言葉と受けとめてしまい、結果として神に戒めを破り、自ら裁きの死を招いてしまった。
  • 偽りを語ってはいけない。老預言者は、自分が偽りを語ったことが原因で神の人が死んでしまったことに心を傷めている。

(黙想)

  • 預言者がいなければ、神の人が死ぬことはなかった。老預言者は、神の人が行ったことを息子から聞いたので、恐らく興味を感じ、神の人から直接話を聞きたかったのだろう。神の人はヤロブアム王のお礼をしたいとの申し出は断った。彼は神から与えられた戒めを理由に断っている。老預言者はこの事も聞いていたと思われるので、神の人に話を聞きたいと言って自分の家に招待しても断られる可能性があることは知っていた。でもどうしても話を聞きたくて、老預言者は偽りを語った。
  • 神の人は、老預言者が「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました」との言葉を聞いたとき、これを信じてしまった。神の人は、老預言者の偽りの言葉に惑わされ、自分が聞いた神の言葉に立ち止まることをしなかった。できなかった。老預言者の言葉を聞いたとき、立ち止まって、老預言者の言葉を吟味すべきであった。でも、どうしたら、そんなことができるのだろうか。
  • 説教者は、神の言葉を語るように召されている。僕は引退して説教を聞く立場になった。そこで思い出すのは、使徒言行録17章10〜11節の言葉である。

兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。

  • ベレアの人々は、パウロやシラスの語る言葉を受け入れる一方、それが本当か否か、聖書を調べて確認したのである。聞いたことを鵜呑みにするのではなく、あるいは自分の考えとは違うと言って聞き流すのでもなく、聞いた説教を聖書に照らして吟味している。
  • 説教者の語る言葉を聖書に照らして吟味することは、大切と知る。昔先輩の牧師が、聖書に親しんでいれば、説教で聞いた言葉が聖書に即しているか否か、感覚的に分かるようになると言われた。そして長老は、このような感覚を養うべきであると教えてくれた。説教を聞く者として、聖書に親しむこと、あるいは説教で語られたことが聖書に語られていることと一致しているか否か、調べることも時に必要である。説教のよい聴き手とは聞いたことをいつも聖書に照らして調べる思いを持つ人であると知らされる。そういう人に説教を聞いてもらいたいと現役の時はいつも思っていた。
  • 説教者は祈って聖書を読み、説教として語るべき事柄を神さまから示されることを求める。聖書と取り組み、語るべき福音を聴き取る。同時に説教準備のために注解書などを参考にすることもある。何を語っていいのか分からないとき、注解書から教えられたことを説教したこともある。何よりも大切なことは、やはり聖書から語るべき福音を自分で聴き取ることである。注解書の言葉は批判的に読む必要がある。神の人は老預言者の言葉を鵜呑みに信じてしまい、神の戒めを破ってしまった。
  • 祈って聖書を繰り返し読み、伝えるべき福音を聴き取ることが何よりも大切である。聖書が説教の源泉である。

(実践)
 5月28日礼拝説教奉仕をする。現役の時とちがって、毎週説教を準備するわけではなく、二週間、三週間の準備時間をとれる。28日の説教についても聖書を読み、辞書で言葉を調べたり、何を福音として伝えるのか思いめぐらしてきた。今朝も朝早く目が覚めたとき、およそのアウトラインを考えた。心して明日、明後日で説教のアウトラインを作り、できたら原稿を書いてみる。