↑桜満開。春爛漫。浅野川沿いの桜
」
↑卯辰山の桜
↑一鉢350円で買ってきたすみれ。すてきな香りを放っている。
最近、心に浮かんだ思いを書き留めておく。
神学校に入学するとき、召命が問われる。つまり牧師となるように、神さまからどのように召されたのかという自覚が問われる。牧師は、自分がなりたくてなるものではない。職業選択の可能性の一つとしてあるのではない。神から「なりなさい」と言われてなるものである。モーセや預言者たちは、神の呼びかけを受けとめ、その働きをしている。
で、僕は神学校に入学するとき、上に述べたような意味での、神の呼びかけを聞いたわけではない。だから、神学校に入学を希望するとき、召命に関する文章を書くことには苦労した。不敬虔かも知れないが、喫茶店でタバコを吸いながら、文章を推敲した。だからといって、いい加減な気持ちで神学校に入学を希望したわけではない。僕の中にあったのは、聖書を知りたい、もっと深く知りたいという思い。この思いは今でもある。福音とは何か、もっと知りたい、という思い。これは今もある。この気持ちは、福音の素晴らしさを伝えたいという思いと一つなのだと思う。聖書を知りたい、それは隠された召命ということができるかも知れない。
で、僕にとって説教の準備とは、福音の鉱脈を掘り当てることに他ならない。自分がこれこそ福音を聞いたと思える、「こういう説教を聞きたい」という説教をする、そういう努力を続けてきたように思う。そして最近、そういう説教をしているという実感がある。
説教者にとって大切なことは、偽りなく、信仰に生きること。信仰に生きることから与えられる言葉を語ること。自分が語る言葉については、責任をもって生きること。僕はそう考えている。