クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 自分でいうのはなんですが、私の説教は変化し続けていると思います。妻もそう語っています。牧師となって30年以上説教をしてきました。今のように日本語で注解書を読める時代ではなかった若いとき、英語の注解書を購入して説教の準備をしました。説教の準備のための環境は大いに変化しました。コンピュータを利用して聖書を読むためのソフトが販売されました。私は、アメリカ製の聖書ソフトを利用しました。最近は、日本語の聖書を読むことに集中しています。自分の説教が変わり続けていると言いましたが、私は色んな人の説教を聞きました。


 最初は、妻の友人が「私が通っている教会は友だちを誘いたくなる教会なの」と妻に言ったのを聞いて、その教会の礼拝説教を聞きました。テープをその友人を通して入手して、ずいぶん聞きました。福音派の牧師の説教です。その牧師は説教の中で、「説教の途中で聖霊が導かれるのでしょうか、用意した説教原稿から離れてしばらく語ってから、もとの原稿に戻ります」と語っていました。聖霊が語る言葉を与えてくれたということでしょうか。印象に残る言葉でしたし、私自身もこれは時に経験します。原稿を書いているときに、もし思いつけば書いていたことを、実際には原稿に書かれていないことを説教しているときに神さまが思い起こさせてくださって語ることがあります。


 次は、超教派の集会で聞いた説教です。その説教では、具体的な事例を聖書から引用するのが特徴でした。聖書から引用する、ある意味でそれは幼稚に思えます。私たちは、宗教改革者のカルヴァンがこう言っているとか、神学者の誰某がこう言っていると語ると説教者がよく勉強していることが伝わります。私たちは人間の書物からの引用をよくします。しかし、私が聞いたその説教は、聖書から引用するのです。以前、先輩の牧師から、聖書を読みたくなるような説教にすることが大切ですと教えられていたので、聖書からの引用、なるほどと思いました。私も、具体的な事例はできるだけ聖書から引用するように努力しています。聖書は、説教者、信仰者の共通の土台ですから、聖書からの引用が一番よいのではないかと思います。


 なんかの機会に聞いた説教の中で、特別な経験をしました。説教を聞いていると、ぐいぐい引き込まれるのです。そして背中のあたりがぞくぞくしてくるのです。ああ、神さまが語りかけてくださっているとの印象を持つ経験です。そんな経験が何回かあります。それで、このような説教をしたいと、いつも願っています。


 それから私は<説教塾>に参加して説教の学びをしています。北陸説教塾では、毎回順番に礼拝で行った説教に対する相互批判を行います。また北陸連合長老会でも説教演習を行い、相互批判を行っています。このような学びは、向上欲を喚起し、これでいい、と自分の説教に満足させない働き、さらなる自己変革をやめさせない働きがあります。自分の説教を批判にさらさないと、いつの間にか、これでいい、と思ってしまうのではないかと思います。


 さらに私は、デボーションを学びました。聖書を読み思いめぐらし、その聖書を通して神さまの語りかけ、神さまの導きを聴き取り、生活に適用していくデボーションを行い続けています。色んなことがからみあって、私の説教は変化し続けているのだと思います。そして私はそれを喜んでいます。


↑昨日、教会の墓碑を新設しました。右側の墓碑に刻まれているのは、私が金沢元町教会に来て葬儀を行った方の名前です。20数名の葬儀を行いました。