クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の御心を行う人

 マルコ福音書3章31~34節を読みました。イエス様のことを気が変になっていると人々が言うのを聞いて、イエス様の身内の人たちがイエス様を取り押さえに来ました。イエス様の周りには大勢の人がいたので、イエス様の母と兄弟たちが人をやってイエス様を呼ばせました。その時イエス様が語った言葉がこれです。

神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。

 ここでイエス様は神の「戒め」を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだとは言いませんでした。神の「御心」を行う人と、とおっしゃったのです。神の御心、です。大事なのは神の御心なんだよなあ~と思います。

 私は神さまが遣わされた救い主を信じてキリスト者になりました。神さまの教えを学び、教えに従う努力をしました。その時、教えに反抗する自分を見出しました。神さまの教えを喜んでいない自分に気づきました。でも私は「神さまのこの教えはむずかしいよね、実行は無理だよね」とは言いませんでした。こう言って自分を正当化することは、私の心が許しませんでした。私はただ神さまの教えに素直になれない自分の罪を知りました。自己中心的な自分がいることを思いました。

 でも自分が本当に罪深いと知ったのは、ある時、自分は神さまのみ心に無関心だったと気づいた時です。説教者として聖書を説き、神さまに従うことを説いている自分でした。もちろん、神さまの教えに従う努力はしていました。神さまの教えには目を留めますが、その教えが出てくるところの神さまの御心には無関心でした。なんて自分は罪深いのだと愕然としたことを思い出します。

 昨日ブログで使徒パウロの愛について書きました。パウロはいわば神の愛を身を持って体現しているのでした。そのパウロの愛を思うとき、神さまは私たちに信頼を寄せ、私たちを誇りにしておられるのではないか、と私は思いました。イエス様を信じて信仰に生きようとする私たちに神さまは信頼を寄せ、言い換えると私たちに期待し、信仰に生きようとする私たちを神さまは誇りに思ってくださるのです。イエス様を信じる者を信頼し、期待し、誇る、それが神の御心だと知ったら、うれしくなりました。

 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。神の信頼に応えて信仰に生き、神さまが誇りとしてくださるような人を目指す、このような人がイエス様と家族なのだとイエス様は教えられたと受けとめました。

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