クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

クリスチャンは立派な信仰者であるべきか

 牧師を引退してから、諸教会で説教奉仕をする機会が与えられました。私たちの教会(日本基督教団)では、礼拝の司式を役員や長老の方が行うことが多いように感じます。礼拝の中で司式者が祈られるのですが、罪の悔い改めの祈りがなされます。無牧の教会での説教奉仕の時は、私が司式をすることも時にありますが、罪の悔い改めの祈りをどうするかはいつも悩みます。

 役員・長老の方たちの罪の悔い改めの祈りを聞いて感じることは、クリスチャンとして立派に振る舞うことができなかったことを告白しているように感じます。牧師をしていた者としては心が痛みます。

 そこで思うことはクリスチャンは立派でなければならないのか、ということです。立派であるべきだと人々が考えるのには理由はあります。イエス様が次のように教えられたからです。

マタイ 5:16
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 このイエス様の教えを読むとクリスチャンとして私たちは立派に振る舞わなければならないと考えてしまいます。この16節は13節から始まる新しい段落の中にある言葉です。イエス様はこうおっしゃるのです。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。

 キリスト者は地の塩、世の光であるというのです。ですから地の塩として振る舞う、世の光として振る舞えばよいのです。だからイエス様は言われるのです。さりげなく。「あなたがたの光りを人々の前に輝かしなさい」。

 しかし多くのキリスト者は、自分が地の塩である、世の光であるとは信じられず、地の塩にならなければいけない、世の光にならなければならない、立派な行いをしなければならないと考えてしまいます。

 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」とのイエスの言葉をどう受けとめたらよいのでしょうか。私は素直に信じればよいと思いますし、私は信じています。しかし多くのキリスト者は、わが身を振り返り、そんなことは信じることができないと言われるのではないかと思います。

 そこで私はキリスト者は神さまを愛することを考えたらよいと思うのです。神さまを愛する、これは神さまの教えの中で一番大切な教えです。キリスト者の人生の目標の一つは神を愛することだと私は考えています。神を愛する人は神の教えに喜んで従います。するとその振る舞いは、自然に立派な振る舞いになります。

 キリスト者は立派な信仰者であるべきか、との問いには私は次のように答えたいと思います。神さまを愛さずして立派な信仰者になることはできません。神さまを愛するなら、立派な信仰者になります。

 キリスト者にとって大切なことの一つは神さまを愛することを真剣に考えることだと思います。

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