11月5日、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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聞いていただけるとうれしいです。
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聖書 創世記15章1~6節
ローマの信徒への手紙 4章13~25節
説教 神を信用する
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以下、原稿です。
0.はじめに
→今日は説教題を「神を信用する」としました。
皆さんは、神を信用するという言葉を聞いてどう思われるでしょうか。
神さまに対して「あなたを信用する」という表現はあまりしないと思います。
これは神に対して失礼な表現になるかもしれません。
でも私の個人的な思いとしては、
「神を信用する」は神への深い信頼を意味します。
今日は信仰の父アブラハムを通して
神を信じることはどういうことかを聖書から聞きたいと思います。
1.神の約束を信じる
→13節
「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束された」とあります。
これは創世記12章に書かれています。読んでみます。
創世記12:1~2
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
ここには、アブラハムを大いなる国民にするとの神の約束があります。
アブラハムが神の示された地に行くと、神は「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました。
子孫を増やし、土地を与えるとの神さまの約束が、
ロマ書の13節の「世界を受け継がせる」との約束と言ってよいと思います。
→まず神さまはアブラハムに約束を与えました。
同時に、「わたしが示す地に行きなさい」と命令を与えました。
神の約束を信じて、どこへ行くのか分からないままに旅立つのか否か、それはアブラハムの自由です。
聖書によれば、アブラハムは、神の約束を信じて、住み慣れた土地を離れて出発しました。
神の約束を信じたことは、神の命令に従うことによって分かります。
→この時、アブラハムは75歳。年をとっています。
妻のサラは10歳年下なので65歳。
彼らには子どもはいません。
常識からすれば、子どもが生まれる可能性はゼロです。
それなのに、子孫が増えるという神の約束を信じて、
新たな人生に踏み出したのです。
どう思いますか。
アブラハムは常識に囚われた人ではありませんでした。
彼は信仰の冒険に踏み出したと言うことができます。
神の約束に人生を賭けたのです。
神を信じるとは、神の約束を信じること、
約束を信じて約束の実現に向けて歩み出すことを意味しています。
信仰の冒険をすること、それが信仰です。
→13節の後半を読みます。
その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
→神さまの約束は、律法を行った人にご褒美として与えるものではありません。
信仰による義に基づくとあります。
神さまの約束は信じる人に与えられます。
神の約束を与えられた時、人は信じるか、信じないか、どちらかを選びます。
信じた人にとって約束は意味があります。
約束の実現に向けて一歩踏み出して歩む人に約束は実現します。
このように約束を信じる人が神の前に正しい人です。
信仰によって義とされるとは、神の約束を信じる人を、義なる者、正しい者と神は認められることを意味します。
2.約束を信じて義とされる
→それから何年かが過ぎました。
アブラハム夫婦に子は授かりません。
子がいなければ子孫が増えることはありません。
アブラハムは神の約束はどうなるのだろうと
不安になりました。
→その時神がアブラハムに語りかけます。
創世記15章に書かれています。
まず神がアブラハムに語りかけます。
15:1
「恐れるな、アブラムよ。
わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。
アブラハムが答えます。
「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」。
さらにアブラムは言います。
「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、
家の僕が跡を継ぐことになっています」。
→アブラハムは、まだ子が与えられていません。
このまま私が死んだら、家のしもべが後を継ぐことになるとアブラハムは語ります。
あなたの約束はどうなっているのですか、と暗黙の内に問いかけています。
すると神は言います。
15:4
「その者(アブラハムの僕)があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」。
さらに神は言います。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、
数えてみるがよい。
あなたの子孫はこのようになる」。
→すると
アブラムは主を信じた。
主はそれを彼の義と認められた」。
空に星が沢山輝いていることは、アブラハムの子孫が増えることとはまったく関係ありません。
しかし神が、
「天を仰いで、星を数えることができるなら、
数えてみるがよい。
あなたの子孫はこのようになる」
と言われた時、
アブラハムは信じたとあります。
そして神は、アブラハムを義と認めたとあります。
アブラハムは神の言葉、神の約束を今一度信じました。
それを神は、義と認めたとあります。
神の前に正しい人とは、
神の言葉を信じる人、神の約束を信じる人です。
言い換えると神を信用する人です。
→この時のアブラハムの信仰について、パウロは17節で語ります。
死者に命を与え、存在していないものを呼び出して
存在させる神を、アブラハムは信じ、
その御前でわたしたちの父となったのです。
→最初に神の声を聴いたとき、アブラハムは既に年を取っていました。妻のサラも年を取っていました。
常識から言えば、子を授かることはありえないのです。
でも彼は信じて、信仰の歩みを始めました。
そして数年が過ぎても子は授からず、
彼は不安になりました。
しかし神の言葉を聞いて、今一度信じたのです。
そして彼は「私たちの父となった」とパウロは言います。
アブラハムは不可能を可能とする神を信じたのです。
そこでこのアブラハムの信仰をパウロは、
「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して
存在させる神を、アブラハムは信じ」た、と書きます。
不可能を可能にする神をアブラハムは信じたのです。
→神の言葉、神の約束を信じ抜く、信仰の父にアブラハムはなったのです。
自分が信じられることを信じ、信じられないことは信じないという信仰ではなく、
神の約束なら、それがどんな内容であれ信じるのがアブラハムの信仰です。
このように信じるアブラハムを神は義としました。
3.イサク誕生の予告
→パウロは19節で次のように書きます。
そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
→創世記17章1節
アブラムが九十九歳になったとき、
主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは全能の神である。
あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。
神はご自身のことを全能の神と明らかにされました。
さらに神は言われます。
「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」。
→アブラハムはどう反応したのでしょうか。
17:17
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。
創世記によるとアブラハムは、百歳の自分に子が授かるはずはないと
心の中で笑ったのです。神の約束をなんて愚かな約束と笑ったのです。
神はご自身を全能の神と語ったのですが、アブラハムは、
もうあきらめたのです。神の約束を愚かな約束と笑いました。
しかしパウロはこう書きます。
→19節。
そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
さらに20~21節
彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
→明らかに創世記の内容とパウロの語ることは食い違っています。
創世記ではアブラハムは一瞬、神の言葉を疑いました。
しかしパウロは、アブラハムは神の約束を疑うようなことはなかったとします。
私はこの食い違いがあることはそのまま認めます。
パウロが語るように、神の約束をどんな時も疑わない信仰者でありたいと私は願います。
しかし疑いが生じることは現実にあります。
大事なのは信じ続けることだと思います。
アブラハムは疑う時期が続いたかもしれません。
しかし実際にイサクが生まれることを通して、
彼の信仰は強められました。
→22節で「だからまた、それが彼の義と認められた」とありますが、これは創世記には書かれていません。
しかしアブラハムが神の約束を信じる信仰を続けたことは事実です。
そして神の前に正しい人は、神の言葉を信じる人、神の約束を信じて生きる人であることを私たちはアブラハムを通して教えられます。
4.私たちも義とされる
→言うまでもありませんが、イエス・キリストを信じる者は義とされる、これも神の約束です。
信仰に生きるとは、義とされたことを信じて生きることです。
時に人は、このような自分が義とされている、神の前に正しい者と見ていただけるなんて、信じがたいという人がいます。
「イエス・キリストを信じる者は義とされる」、これは神の約束です。
だから私たちは義とされています。
たとい私たちが罪を犯す者であったとしても、
たとい私たちが罪深い者であったとしても、
イエス・キリストを信じるなら、義とされているのです。
→最初に神の声を聞いた時、アブラハムは75歳、妻のサラは65歳。
子孫が増える、言い換えると子が授かるなんて、信じがたかったと思います。
それでも神の約束を信じて、彼は信仰の歩みに踏み出しました。
←神の約束、神の言葉は真理です。だから信じます。
キリスト者は、自分が罪を犯そうとも、罪深い者であったとしても、
自分が義とされていることを信じます。
もし信じないなら、迷いの森の中をさまようことになるでしょう。
神の約束だから信じる、神を信用する、それが信仰であり、
このような人が神の前に正しい人であると教えられます。
義とされたことを信じる、これは信仰の冒険の出発点です。
→24節。
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
→ここでは、イエス・キリストの死と復活を信じるなら、私たちは義と認められるとあります。
イエス・キリストの死と復活、これは神のみ業です。
神のみ業とされることを神のみ業と認める、これが信仰です。
だから義と認められるとパウロは書きます。
キリストの復活には、神の救いのさまざまな約束が含まれています。
ロマ書を読み進めるうちにそれらの約束と私たちは出会います。
→今日は、信仰とは神の言葉、神の約束を信じ抜くことであること、
神の前に正しい人とは、神の言葉を信じる人、神の約束を信じ抜く人、要するに神を信用する人である
ことをお話ししました。