クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝説教 神の約束に生きる

 

 昨日、無牧の教会の礼拝説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
音声サイトへ行くには ここをクリック
聞いていただけるとうれしいです。

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聖書 創世記12章1~9節
説教 神の約束に生きる
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→聖書が教える信仰の特徴は何でしょうか。

色々な特徴があります。

私にはこれが大切と考えている信仰の特徴が一つあります。

これについてお知らせしたいと思います。

それは神の約束、神の言葉にしっかり立って生きるということです。

もう一度繰り返します。

それは神の約束、神の言葉にしっかり立って生きるということです。

そうは言っても時に疑ったりすることはあってもよいです。

つまり疑ったり、迷ったり、ぶれたりしながら、

でも神の約束、神の言葉に立って生きるようになっていけばよいと考えます。

私たちの模範となるのが信仰の父と呼ばれるアブラハムです。

彼は最初アブラムという名前でしたが、

後に神から、アブラハムと名乗るように命じられました。

1.信じて出発するアブラハム

 

→今日は創世記12章を読みました。

「主はアブラムに言われた」とあります。

その呼びかけは何を語っていたのでしょうか。

その呼びかけには命令と約束があります。

最初は命令です。

 

創世記 12:1

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。

 

4節によれば、この時アブラハムは75歳。

75歳になって、全然知らない土地へ行くのは、勇気が必要です。

これまでの安定した落ち着いた生活を離れるからです。

しかも「わたしが示す地」がどこなのかも分かりません。

 

→しかしそこには約束もありました。

「わたしはあなたを大いなる国民にし、

あなたを祝福し、あなたの名を高める

祝福の基となるように」。

でも、これはアブラハムが生きている間には実現しない約束です。

彼は自分が生きている間には実現しない約束を信じます。

そんな約束を信じるなんて愚かに見えるかもしれません。

 

→アブラハムは約束を信じ、旅立ちました。

75歳の時です。

神の呼びかけによって、アブラハムの人生は

あらたな信仰の人生となりました。

 

→そこでふと私は思います。

私たちは洗礼を受け、神の示す地に向かって

旅立ったのではないでしょうか。

私たちはどこに向かったのでしょうか.

 

→アブラハムはユーフラテス川の上流の町ハランを旅立ちます。

南にくだりシケムという地に来たとき、

神はアブラハムに現れ

「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました。

そしてアブラハムは、彼に現れた主のために祭壇を築いたとあります。

彼は、自分に呼びかけた方が神であると信じたことが分かります。

 

2.主を信じるアブラハム

 

→色々なことが起こり、何年か過ぎました。

アブラハムの心に疑問が生じました。

自分はどんどん老いていくのに、いっこうに子を授かりません。

子が与えられなければ、大いなる国民になるという約束は実現しません。

この先どうなるのだろうか、と戸惑う思いになりました。

 

→創世記15章。

すると神がアブラハムに現れます。

アブラハムは言います。

「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。

わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」。

すると神は言うのです。

「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」。

 

→主は彼を外に連れ出して言われた。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。

そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる」。

 

→するとアブラハムは主を信じた、とあります。

空に無数の星が見えることと、

アブラハムの子孫が大いなる国民になることとは

直接的な関係はありません。

しかしアブラハムは主を信じたとあります。

約束を与えた主を信じたのです。

アブラハムは主を信じた。

主はそれを彼の義と認められたとあります。

これはとても大切です。

神の前に正しい人とはどのような人を言うのでしょうか。

それは神ご自身を信じる人。

つまり神の約束、神の言葉を信じる人です。

アブラハムは、自分は主を信じる者であると、自覚したと思います。

 

3.迷い疑うアブラハム

 

→とはいえ、信仰に疑いや迷いはつきものです。

疑ったり迷ったりすることを恥じる必要はないと私は考えます。

固い信仰に至るためには、迷いや疑いも役に立ちます。

疑いや迷いを突き抜けた先に確かな信仰が宿ります。

ではアブラハムに何が起きたのでしょうか。

妻のサライが彼に言うのです。

 

「主はわたしに子供を授けてくださいません。

どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。

わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」。

 

→アブラハムは、女奴隷ハガルによって子を得ます。

生まれた子はイシュマエルと言います。

彼は確かにアブラハムの子ですが、

妻のサライが産んだ子ではありません。

でもアブラハムは、これで自分に子ができたと考えたと思います。

この子が大きくなり結婚し、子供を授かり

子孫が増えていくことになると考えたと思われます。

イシュマエルが生まれたのはアブラハムが86歳の時です。

神が最初に彼に呼びかけて10年後です。

 

→それから13年が過ぎ、アブラハムは99歳になりました。

すると神がアブラハムに現れて言います。

「わたしは全能の神である」。

つづいて神は言います。

 

創世記 17:5

あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。

 

→あなたを多くの国民の父とする。

アブラハムにはイシュマエルという子がいますから、

この神の言葉はサッと彼の心の中に入ったと思います。

続いて神は言います。

 

創世記 17:15~16

「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。

わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。

 

→神は妻サラによって子を授けると言われました。

アブラハムはこれをどう聞いたでしょうか。

 

17:17

アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」

 

アブラハムは神の言葉を信じなかったのです。疑うどころか否定したのです。

無理もありません。

彼が75歳の時に神は、あなたの子孫は大いなる国民となると約束されました。

しかしアブラハムが99歳になっても、妻のサラに子は授かりません。

サラは90歳。子が授かる年齢はとうに過ぎています。

しかし神は「わたしは全能の神である」と名乗られたのです。

 

→創世記18章。

それからまもなくして、神の使いがアブラハムに現れて言います。

 

「来年の今ごろ、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」。

 

物陰から聞いていたサラは、ひそかに笑いました。

こんな年寄りに子が生まれるはずがない、

なんと愚かなことを言うのだろうと笑ったのです。

この時、アブラハムがどう思ったのかは聖書には書かれていません。

 

4.約束の実現に向けて

 

→創世記21章。

神の使いが約束したとおり、サラは身ごもり、子を出産します。

アブラハムは、子の名はイサクを名づけました。

ようやく、ようやく、妻との間に子を授かりました。

神が約束されてから25年後に、

約束の実現の第一歩として、子が授かりました。

25年も約束の実現を待ち続けるなんて、驚きです。

途中には疑うこともありましたし、信じなくなったこともありました。

しかし神は真実な方であり、まず子を授けてくださいました。

神は真実な方で約束を実現する方であると

アブラハムは肝に銘じたと思います。

 

→そして創世記22章です。

イサクが何才になったのかは明確ではありません。

神はアブラハムを試されたとあります。

神は言います。

 

創世記 22:3

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 

→神はとんでもないことを命じます。

「あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。

大切な独り子をいけにえとして献げよというのです。

祭壇を築き、そこで殺し、焼いてしまうのです。

動物をいけにえとして献げることは理解できます。

アブラハムの子を献げよというのです。

 

→愛する独り子、神の約束によって生まれた子をいけにえとして献げるのです。

なんてひどい命令でしょう。

イサクが死んだら、子孫が大いなる国民になるという約束はどうなるのでしょうか。

 

→アブラハムは、神に命じられた次の日朝早くモリヤの地に向かいます。

アブラハムに迷いはないように見えます。

イサクがいけにえとして献げられ死んだら、

神の約束はどうなるのか、という問題はあります。

でもそれは神の問題であって、アブラハムの問題ではありません。

神は約束し、実現させる方です。

アブラハムは約束を信じ、命令に従うだけです。

イサクは死ぬかも知れない、それでもなお神は約束を実現される方であると信じたのです。

神はアブラハムを試したとあります。

何を試したのでしょうか。

アブラハムが命令に従うかどうかを試したわけです。

アブラハムが神の約束を信じ抜くかどうか、試したわけです。

 

→神さま、いくら何でもこれはひどい命令です。

わたしの大切な子をいけにえにするなんて、

私は従うことはできません、と命令を拒むかもしれません。

あるいは、イサクを献げたら、私の子孫が大いなる国民になるというあなたの約束が実現しなくなります。

だから、イサクを献げることはできませんと命令を拒むかもしれません。

アブラハムが人間的な思いに囚われ、神さまに従わなくなるのか、神は試したのです。

 

→しかしアブラハムに迷いはありませんでした。

神の約束は実現すると信じました。

なぜなら彼は、神を信じたからです。

神の命令に従いました。

神を信じたからです。

 

→神を信じるとは、

人格を持たれる神を信じることです。

人格を持つ神を信じるゆえに、

神の約束、神の言葉を真実だと信じます。

そして神の命令には従います

これが神を信じるということです。

 

→アブラハムが刃物でイサクを手にかけようとしたとき、

天から神の御使いが、

「その子に手を下すな、何もしてはならない。

あなたが神を畏れる者であることが今分かった。

自分の独り子である息子すら、私にささげることを惜しまなかった」と言います。

そして神はアブラハムを祝福します。

 

創世記22:16~17

あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、

あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。

 

5.私たちにとっての神の約束と命令

 

→以上はアブラハムの物語でした。

アブラハムは神の約束と命令を聞いて、住み慣れた場所から旅立ち、

信仰の人生を歩みました。

疑い迷うときがありましたし、ある時は信じようとしなかったこともありました。

しかし最後は、神の約束を信じ抜き、神の命令に従いました。

アブラハムにとって、信仰とは神の約束を信じることであり、神の命令に従うことでした。

信仰の父と呼ばれるこのアブラハムは私たちの模範です。

 

→キリスト者である私たちにも色々な約束が与えられています。

最後に、神さまが私たちに与えてくださっている約束と命令の言葉を三つ紹介します。

 

 

ローマ 3:22

すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

 

→イエス・キリストを信じる者は神の前に義と認められるとの教えです。

イエス・キリストを信じる人は神の目に正しい人です。

これは神の約束です。そしてすでに私たちの身において実現しています。

そして私たちが罪を犯しても取り消されません。

なぜなら、私たちが義とされる根拠は、キリストの贖いにあるからです。

私たちに対する神の命令は、義とされたことを信じて歩むことです。

 

ヨハネ3:16

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

→御子を信じる人は永遠の命を与えられるとの約束です。

これは私たちが生きている間は実現しない約束です。

アブラハムも自分が生きている間は実現しない約束を信じました。

彼は信仰の父、私たちも生きている間は実現しない約束を信じます。

永遠の命の約束は私たちが神の御国に迎えられるときに実現します。

私たちに対する命令は、この約束を希望として生きていくことです。

 

フィリピ 4:6~7

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 

→思い悩むときも、神さまは、私たちの心と考えを守ってくださるとの約束。

命令は、神に打ち明けること。

この約束と命令は、キリスト者の人生でたびたび必要となるものです。

キリスト者の人生を励ます約束です。

 

→時に、疑ったり、迷ったり、ぶれたりしても構いません。

信仰の父と呼ばれるアブラハムがそうだったのですから。

神の言葉、神の約束を信じて歩む、

それが私たちの信仰です。