クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝説教 天のふるさと

 一昨日、説教奉仕をしました。その教会の牧師先生が入院されたのです。緊急応援です。読んでいただけるとうれしいです。

 

創世記12章1~2節
ヘブル 11章1~2節、8~16節
説教   天のふるさと

0.導入

→以前、祈祷会で、ある方が「信じるしかない」と発言されたことが忘れられません。
聖書が語る、死を越える希望について、「信じるしかない」と発言されました。
「信じるしかない」。これはさびしい答えだと思います。
それに対して何と言ったらよいのか、ずっと宿題になっていました。
今日はその宿題の答えを出せたような気がします。
死を越える希望を「教え」として受けとめるのではなく、
「神の約束」として受けとめるなら、うれしい希望となるのではないでしょうか。
そこで神の約束に生きた人を紹介したいと思います。
その人は、神の約束の実現を希望にして生きた人です。
信仰の父と呼ばれるアブラハムです。

→今日読んだヘブライ人への手紙11章1~2節をもう一度読みます。

11:1~2
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、
まだ見ていない事実を確認することである。
昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。

→この聖句は、信じるとはどういうことかを教えます。
信じるとは、望んでいる事がらを確信することであると教えます。
信じるとは、まだ見ていない事実を確認することであると教えます。
キリスト者が望む事柄、キリスト者がまだ見ていない事実とは、
聖書の中で神が約束していることです。

→たとえば

ヨハネ3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ここには神の独り子、御子イエス・キリストを信じる人は滅びることなく、永遠の命を得ると約束されています。

→キリストを信じる者は永遠の命を得る、これは聖書の教えですが、約束と言うことができます。
私たちは信仰者です。
聖書に示された約束を信じます。
信じるとは、自分は永遠の命を受け取る、
と確信することだ、
確認することだとヘブル書にあります。
神の約束を希望する、その実現を確信する、それが信仰だというのです。

→この希望を「信じなければならない」と考えると、信じるしかないとの言葉が出てきます。
でも神の約束を喜ぶなら、
神の約束の実現は楽しみとなります。

→そこで神の約束に生きたアブラハムについて聖書に聞いてみたいと思います。

1.アブラハムの信仰(1)

→創世記の12章に、神がアブラハムに声をかけたことが書かれています。
彼が75歳の時です。

創世記 12:1~2
時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。
あなたは祝福の基となるであろう。

→神はアブラハムに約束されました。
わたしはあなたを大いなる国民とすると。
あなたを祝福し、あなたの名を大きくすると。
そして神は彼に命じます。
「わたしが示す地に行きなさい」。

→大いなる国民にするという約束、
これは途方もない約束です。
しかも自分が生きている間には実現しない神の約束です。
おまけにアブラハムには子供がいません。
それなのにアブラハムは、この神の約束を信じ、
行き先を知らずして、出発しました。
このアブラハムのこと、どう思いますか?

→神の言葉を聞いてアブラハムがどう思ったのか、
何を考えたのか、そのことを聖書は書いていません。
聖書はアブラハムの行動だけを書きます。
アブラハムは神の語った約束の実現を願いました。自分の希望としました。
約束の実現を信じ、彼は神が示す地に向けて出発しました。

→それから10年が過ぎました。創世記15章。
まだ子は授かりません。
しかもアブラハムは85歳、妻のサラは75歳です。
アブラハムの心には神の約束は本当に実現するのか、という疑いが宿ります。
当然のことだと思います。

→すると神が再び彼に語りかけます。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。
「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。

→すると、なんとアブラハムは神を信じたのです。
神の言葉通りになると信じたのです。
アブラハム夫婦は、子供がいない老夫婦です。
しかし天に輝く無数の星を見たとき、
あなたの子孫はあのようになるという
神の言葉をアブラハムは信じたのです。

2.アブラハムの信仰(2)

→やがてアブラハムは99歳になります。創世記17章。
神が最初にアブラハムに語ったときから、24年も過ぎました。
妻のサラは、まだ子を授かっていません。
サラはアブラハムより10歳年下で、89歳です。
常識的に考えるなら、子を授かる年齢ではありません。
再び神の声が聞こえます。

17:1
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。

→神は、「わたしは全能の神である」と語ります。続けて言います。

17:4
「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう」。

→あなたは多くの国民の父となると神は、はっきりと約束の実現を宣言したのです。
私は「全能の神である」と神は語った上で、
あなたは多くの国民の父となると宣言したのです。

→しかしこの時、アブラハムは神の言葉を信じませんでした。

 17:17
アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、
「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができよう」。

→アブラハムは神の約束の実現を疑いました。
実現するわけがないと否定したのです。

→しかし、まもなく妻のサラは身ごもり、アブラハムは子を授かりました。
アブラハムが100歳の時です。
その子をイサクと名づけました。
神は全能の神であり、神は人間の思いをはるかに越えることをなさる方であるとアブラハムは信じました。
アブラハムは神の約束は必ず実現するという確信を持つ人になりました。

→それから何年かが過ぎて、神はアブラハムの信仰を試みました。

創世記22:1~2
神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。
神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

→燔祭というのは、いけにえを丸焼きにして神に献げることです。
息子を燔祭として献げなさいと神は命じるのです。
イサクはアブラハムが100歳になってやっと生まれたたったひとりの子です。その子を献げたら、アブラハムの子はいなくなり、
子孫は大いなる国民となるという神の約束はどうなるのでしょうか。
献げなければ神の命令に背くことになります。

→アブラハムは迷うことなく、すぐにイサクを神に献げるべく出かけたようです。
モリヤの山に登り、祭壇を築き、
その上にイサクを横たわらせます。
そしてナイフで彼を殺し、いけにえとして献げようとしたとき、
まさにその瞬間、
「わらべを手にかけてはならない。」との神の声が聞こえてきました。
神はアブラハムに「あなたは私を畏れる者であることが分かった」と言います。
そして神はアブラハムを祝福します。

→アブラハムは、神の約束は実現すると信じました。
そして神の命令に従いました。
神はそのようなアブラハムを、神を畏れ敬う者であると認めました。

→この後、アブラハムが140歳の時、イサクが結婚し
アブラハムが160歳の時、イサクに双子のエサウとヤコブが生まれました。
アブラハムは175歳で死にます。
アブラハムは、少年のエサウとヤコブという孫を見ることができました。
そしてアブラハムは満ち足りて死んだと聖書に書かれています。

→アブラハムの人生は、神の約束を中心とした人生でした。
時に神の約束を疑うことがありましたが、
最終的には神の約束に立ちました。
しかし、神の約束の実現を見ずして死にました。
彼の子孫が大いなる国民になるというのですから、
約束の実現を目にすることはできません。
約束の実現を信じて死にました。

4.ヘブル書の語るアブラハム

→次に、ヘブル人への手紙はアブラハムをどのように描いているのでしょうか。

11:13~14
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

11:16 
しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。

→彼らというのは、アブラハム、その子イサク、孫のヤコブを指します。

彼らは天にあるふるさとを求めていたとあります。
このことは創世記には書かれていません。
それなのに、アブラハムは天のふるさとを望んでいたとヘブル人の手紙の著者は書くのです。
ヘブル人の手紙の著者は、どうして
アブラハムが天のふるさとを求めていたと
書くことができたのか、謎です。
天のふるさと、それは神の国、のことと考えます。

→創世記に書かれている神の言葉を紹介します。

15:15
あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。

→神はアブラハムに「あなたは安らかに先祖のもとへ行く」と語りました。
これは死ぬことを意味しています。
旧約聖書には、人は死んだら先祖のもとに行くという理解があります。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、
ダビデもソロモンも、皆死んで
先祖のもとに行ったと旧約聖書に書かれています。
アブラハムが死んで神の国に行くことを希望していたと理解することはできないように思います。

→そこで考えることは神の約束の実現ということです。
私たちは聖書を読み、アブラハムに対する神の約束が実現したことを知ります。
アブラハムの孫のヤコブには、息子が12人いました。
創世記の終わりに、ヤコブは息子たちと共にエジプトに行ったこと、
出エジプト記の最初に、息子たちから沢山の子孫が誕生したことが書かれています。
私たちはアブラハムに対する神の約束が実現したことを知ります。

→しかしアブラハムは、約束の実現を見ずに、死にました。
13節には、
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び」とあります。

→アブラハムは、約束の実現を見てはいません。
しかし「はるかにそれを望み見て喜び」とあります。
これは神の約束の実現を信じて喜んだということです。
まだ実現していないのに、実現を信じ、喜んだのです。

→ヘブル人の手紙の著者は、アブラハムは天のふるさとを熱望していたと書きます。
天のふるさと、それは神の国のことです。
神の国は、神の約束が実現したことを知る場所であると私は考えます。
アブラハムは神の約束の実現を是非、見たかったのではないでしょうか。
天のふるさとを熱望していたというのは、
アブラハムもまた神の国に招かれ、
そこで神の約束が実現したことを知り、喜ぶということではないかと考えます。

→天のふるさと、神の国こそ、神の約束の実現を喜ぶ場所なのです。
それでアブラハムは神の約束の実現を見たかった、知りたかったと
ヘブライ人の著者は書いたのではないか、と想像します。

5.天のふるさとを熱望する我ら

→私たちキリスト者もまた神の約束に生きる者であることを自覚したいと思います。
イエス・キリストを信じる者は義とされる、これは神の約束です。
信仰によって義とされるから、イエス・キリストを信じる者は罪が赦される。神の約束です。
マタイ福音書の最後で、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」とイエスは言われました。
これも約束です。
私たちはこのような約束を信じて信仰生活を送っています。

→アブラハムと同様、私たちもまたこの地上に生きている限り実現しない神の約束を与えられています。
キリスト者は信仰によって義とされているので、
最後の審判において救いへ入れられ、
神の国に迎えられるという約束です。
あるいは、

コリント一13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

顔と顔を合わせるように神を見るという約束です。
このような神の約束の実現を楽しみにするとき、
死を越える希望の実現が楽しみとなるのではないでしょうか。
私は楽しみにしています。