ゲッセマネの園についたイエス様は弟子たちに「ここに座っていなさい」と命じ、ペトロとゼペタイの2人の子を伴って祈る場所に向かわれました。そしてある場所に来て、
「わたしと共に目を覚ましていなさい」
と3人にお命じになり、ちょっと離れた場所で祈られました。何を祈られたのか、それは弟子たちの耳にも入りました。だからイエス様の祈りが聖書に記録されています。
イエス様が戻ってみると弟子たちは眠り込んでいました。するとイエス様は
「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」
とお命じになりました。残念ながら弟子たちはまた寝入ってしまいました。夜の何時頃のことか分かりませんが、弟子たちは疲れていたのでしょう。周囲は暗いですから眠りに誘われても不思議ではありません。しかし「目を覚ましていなさい」とイエス様が言われたのに不覚にも弟子たちは眠ってしまいました。イエス様は弟子たちに「心は燃えても肉体は弱い」と仰せになりました。
そこで思います。「わたしと共に目を覚ましていなさい」との言葉、これは私に語られた言葉でもあると。イエス様は人々を罪とその結果から救うために十字架につき、罪の贖いのいけにえとなって命をささげられました。
現在、イエス様は天の父なる神さまの右に座しておられます。そしてイエス様は人々を救いに導くために福音を宣べ伝える者を召されます。それだけでなく、人々をご自身を信じるように導かれ、ご自身を証しする者として生きるよう召されます。イエス様を信じる者はクリスチャンと呼ばれます。クリスチャンとは、イエス・キリストを証しする人という意味を持つといってよいと思います。それは人々を救いに導くためです。
イエス様は今も人々を救おうとされています。このマタイ福音書のゲッセマネの園でイエス様が祈る場面を読んだ時、イエス様が私に「わたしと共に目を覚ましていなさい」と語りかけておられると受けとめました。
説教者として礼拝においてイエス・キリストを宣べ伝える働きからは退きました。でも今は、余生を楽しむ生活をしているわけではありません。日常生活に埋没してはいけないと自戒します。イエス様と共に目を覚まして福音を宣べ伝え、人々を救いに導くためにささやかでも力を尽くしたいと努力しています。「誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい」。年老いた者としていかに信仰に生きるのか、キリストの証人として生きるのか、目を覚まして歩みたいと教えられました。聖書を思いめぐらすって素晴らしいことだと思います。