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隠退牧師 holala によるブログ

聖書をこととして読む

  昨日からマタイ福音書26章47節以下、イエス様が捕らえられる場面を読んでいます。大勢の群衆が剣や棒を持ち、イエス様を捕らえにきます。ユダは「わたしが接吻する人がその人だ」と言い、イエス様に近寄り接吻をします。人々は進み寄りイエス様に手をかけ捕らえました。弟子の一人が剣を振るい、大祭司の手下の耳を切り落とします。するとイエス様があの有名な言葉を語ります。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。

 ここでイエス様は二度「聖書の言葉が実現する」と語ります。御自分が捕らえられるのは聖書が語っていることであり、神さまのご計画だというのです。イエス様にとって聖書とは旧約聖書のことです。イエス様は御自分が捕らえられ、十字架の上で亡くなることをすでに三度弟子たちに語っています。それは不思議な仕方でイエス様が将来起こることを知っていたということではありません。むしろ自分の身に起きることは聖書に書かれていることの実現なのだという確信をもっておられたのだと思います。イエス様が聖書のどこを思い浮かべて語っておられるのかは分かりません。イザヤ書53章の描く苦難の僕の死は、自分の死に他ならないと考えておられたと思います。

 私はイエス様が聖書に書かれていることを信じ、聖書に書かれていることを自分のことと受けとめて生きることに感銘を受けます。そして聖書に対する敬意を持ちます。イエス様の弟子たちは、最初イエス様がなぜ十字架で亡くなられたのか分かりませんでしたが、やがて聖書からイエス様の死の意味を理解し、イエス様を救い主と宣べ伝え始めました。

 そこで、私も聖書に書かれていることを自分のこととして信じて生きようと思いました。今回は特に、聖書が描く終末のことをやがて自分の身に起きることと受けとめたいと思いました。最後の審判だとか、イエス様の再臨だとか、聖書に書かれていますからキリスト者はこれを否定することはないと思いますが、これを真剣に信じるというのは簡単なことではないと思います。

 終末の事柄を真理とし、本当のこととして信じることは私の課題です。真理として信じるとは、その結果自分の生き方が変えられることを意味します。その一つの助けが今日の聖書で与えられました。つまりイエス様は聖書に書かれていることが自分のことだと受けとめて十字架の死に向かって歩まれたことです。イエス様は聖書を自分のこととして信じていた、だから私も聖書が語る終末の事柄を自分のこととして信じようというわけです。

 終末のことなんか考えずに、死んだら神さまのもとへ行く、これでいいんじゃないのと言う人もいるかもしれません。でも私はいかにしたら終末の事柄を信じ、信じることによって自分の生き方がどのように変えられるのか、それを楽しみにしています。

 

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