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隠退牧師 holala によるブログ

わが主、イエス

  マタイ福音書26章57節以下で、ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様は、大祭司の屋敷に連れて行かれました。そこで裁判を受けます。偽証人が現れ、偽証をしましたが、決定的な証拠はなく、イエス様を死刑にすることはできません。そこで大祭司が「お前は神の子、メシアなのか」とイエス様に問います。そのときイエス様は語ります。

「あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る」。

 これが神を冒とくする言葉として非難され、イエス様は死刑に処すべきとされました。そして人々は、イエス様を侮辱しました。顔につばを吐き、こぶしで殴り、平手で打つなどしました。

 この箇所を読んで、今回は、上のイエス様の言葉が心に残りました。イエス様は復活して天に上げられ父なる神の右に座ります。やがて雲に乗ってくるというのです。これは使徒信条で「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父の右に座したまえり。かしこより来たりて」とある部分と同じです。礼拝で信仰告白として使徒信条を告白していますが、そのときは告白するだけです。しかし受難節の中で、このイエス様の言葉を読み、これが心に残りました。

 何よりも主イエスはここで人々から侮られ、あざけられ、いわば低きに降られたのです。人々のなすがままを受け入れられました。そして十字架で処刑され、亡くなったのです。このように低きに降られた方が今、天の父なる神の右に座しておられるのです。神の右に座している、それはイエス様が神であることを意味します。
 イエス様は神でありながら、偉ぶることは少しもありません。低きに降られ、人々の嘲りを受けられたのです。それは人類を救うためです。そして十字架で処刑されて死にました。このように低きに降られた方が天に昇り、神の右に座しておられます。神として座しておられます。低きに降られた無力なイエス様、同時に神の右に座す崇められるべきイエス様。イエス様はこの二つの面を持つお方です。このイエス様をどう理解したらいいのでしょうか。このイエス様を信じるとは、どういうことなのでしょうか。

 私のために神であられた方が人となり、しかも人々に理解されず、人々にののしられ、あざけられ、軽蔑されて死ぬのです。しかもそれは私を罪から救うための死であり、イエス様は私のために命を犠牲にされました。そしてその方が神の子として、父なる神の右に座しておられます。この方は神なのです。崇められるべき神なのです。わたしの主なのです。この方とどう関わったらいいのでしょうか。

 それはただ一つ。この方を主と崇め、この方にお従いするしか歩むべき道はないと受けとめました。イエス様は権力を振りかざし、偉ぶって「わたしに従え」という方ではありません。私のために人々からあざけられ、軽蔑されることを厭わず、そして十字架で死なれました。この方が同時に神の右に座しておられるのです。この方を主と崇め、この方にお従いするしか歩むべき道はありません。このことを今日聖書を思いめぐらし確認しました。

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この季節、いがいと黄色の花が多いです