クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

目を覚ましていなさい

 受難節。マルコ福音書14章を読んでいます。ゲッセマネの園でイエス様は祈られました。その時、3人の弟子を自分の近くに呼び寄せ「目を覚ましていなさい」とお命じになりました。それから少し離れたところでイエス様は祈られました。しばらくしてイエス様が弟子たちの所に戻ってみると彼らは寝ていました。

 するとイエス様は「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても肉体は弱い」と仰せになりました。

 夜で弟子たちは疲れていたと思います。イエス様が祈られた場所でまた祈られると弟子たちは寝入ってしまいました。再び弟子たちのところへ来ると弟子たちは寝ており、イエス様が来たことを知った弟子たちは、イエス様の顔を見ることができませんでした。イエス様はまた祈りに行かれました。そして戻ってくると弟子たちはまた寝ていました。この時は「時が来た。行こう」とおっしゃいました。

 イエス様はなぜ、弟子たちに「目を覚ましていなさい」とお命じなったのでしょうか。最初に思ったことは、まもなくユダに率いられた人たちがイエス様を捕らえに来るはずなので、来たときに気づくように見張っていなさいとの意味かと思いました。眠ってしまえばその役目は果たせなくなります。

 今日、教会で「マタイ受難曲を聴く会」の2回目が開かれました。聞きながら思いめぐらしていましたが、その時に気づきが与えられました。イエス様がもだえながら祈っていることの証人となるべく目を覚ましているべきだったのではないか、と。弟子たちが証人にならなければ、イエス様がもだえながら祈っていたこと、また「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とのイエス様の祈りが後の世に伝えられることはなかったと思います。

 イエス様はもだえ苦しみながら祈り、そして捕らえられ十字架で亡くなります。私たちが救われるために、イエス様がこのように祈られたことを私たちは覚えておかなければならないのだと思いました。それはイエス様によって与えられる罪からの救いが何であるのかを私たちに考えさせると思います。

 睡魔という誘惑に負けてしまえば、弟子たちは証人になれません。イエス様は弟子たちに証人になることを願われたのだとの気づきを与えられ感謝でした。

 この弟子たちは情けない弟子たちでした。イエス様から見れば期待外れと言うべき弟子かもしれません。そして情けないのは私たちも同じであると私は思います。しかしこの弟子たちが復活したイエス様に出会い、聖霊の注ぎを受けてから、イエス様を宣べ伝える働きを大胆に行いました。そのおかげでキリスト教が世界中に広まりました。この弟子たちは、私たちもイエス様が救い主であることの証人として生きることができるよと励ましてくれます。

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ユキヤナギ 大阪市立大学附属植物園