クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

イエス様の悲しみ

 受難節で、マタイ福音書に書かれているゲッセマネの園の記事を思いめぐらしています。イエス様は悲しみもだえ始めました。そして弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(26:38)と語られました。いったいイエス様は何を悲しまれたのか、それを思いめぐらしました。

 「死ぬばかりに悲しい」。これは悲しみのあまり死ぬほどである、悲しみに押しつぶされてしまいそうだとの意味と考えてよいと思います。この「悲しい」という言葉、原語のギリシャ語が用いられている聖書箇所があります。

 一つはマルコ6:26。へロディアの娘サロメのおどりを喜んだヘロデ王がサロメに欲しいものは何でもあげると約束した時、サロメはヨハネの首をといった。洗礼者ヨハネの首である。そのときヘロデ王は「心を痛めた」とあります。この場合は強い後悔の念を指していると思われます。あんな約束をしなければよかったという後悔。そしてヨハネを殺させてしまうことへの申し訳なさもあると思います。

 もう一つはルカ18:23。金持ちの議員がイエスのもとに来て何をすれば永遠の命が与えられるでしょうかと聞いたという話です。

ルカ 18:20~23
『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。

 この金持ちは「非常に悲しんだ」。この金持ちの場合、永遠の命を求めていました。しかしイエス様の答えを彼は実行できませんでした。イエス様の言うとおりなら、自分は永遠の命を得ることができない、そのことを悲しんだことになります。ここには複雑な感情があると思います。自分のものを売り払って貧しい人に施すことができません。それでは永遠の命を得ることができないのか、という抗議の気持ち、物を惜しみ、それができない葛藤、イエス様の教えが正しいなら永遠の命を得ることができないという絶望。「悲しい」という言葉が意味する内容は、幅が広いことが確認できるように思います。

 イエス様は「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈りました。それは十字架の死を直接味わわなくていいようにとの祈りです。十字架の死という苦難が、自分のそばを通り過ぎるようにとのことで、十字架の死を経験しなくてすむようにとの祈りです。イエス様の悲しみと十字架の死とは無関係ではありません。むしろ大いに関係があります。

 イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。イエス様の悲しみとは、父なる神に見捨てられる悲しみなのでしょうか。だからこのような悲しみ(辛い、絶望)に遭わせないでと祈られたのでしょうか。これは違うような気がします。あの十字架上での叫びは、あらかじめ予想できたものではなく、十字架につけられて初めて味わった深い絶望から出た叫びであると思います。だからイエス様の悲しみは「父なる神に見捨てられる悲しみ」を予想しての悲しみではないと思います。

 あるいは不安なのでしょうか。これから起きることへの不安。苦しみを受け、十字架上で処刑されて死ぬ。その事への不安です。イエス様はこれまでに三度、弟子たちに自分が苦しみに会い死ぬこと、そして3日目に復活することを語っています。しかしそこに至るまで起きる一つ一つのことについて不安があると考えることはできます。私たちだって死んでも復活し、御国に迎えられると知っていても、実際に死を前にする時は不安に包まれます。これも違うような気がします。

 神さまの御心として自分自身を犠牲としてささげることに悲しみを感じたのでしょうか。人類の救いのために自分の命をささげる、それは尊い死であるかも知れません。でも辛いです。神の子として父なる神に従って歩むわけですが、そこまでしなければならないのでしょうか。神の子の命を犠牲にするほど人間の罪は重いのでしょうか。人間の救いのために自分の命を犠牲にするのが自分の使命としても、悲しい定めに思えないか。

 それともイエス様は十字架の上で犠牲として死ぬわけですが、その死の過程において、身をもって罪を償うことを知っての悲しみでしょうか。旧約においては人々は罪の赦しを得るために動物の犠牲をささげました。動物の死、言い換えると動物の命をもって償いとしました。イエス様も罪の赦しのための供え物の死を死ぬわけです。イエス様は単に十字架の上で処刑されて死ぬということではなく、その死の過程で、罪を償うという行為を身をもって味わうとしたらどうなるのでしょうか。つまり罪に対する神の裁きを受けるのです。すべての人類の罪に対する神の裁きを受けるのです。そのことへのためらい、恐れ、不安、複雑な感情があったのではないか。死の過程の中で、神の裁きを受けるとして、それがどのようなものか分からないのです。そこにイエス様がもだえた原因があるのではないか。この裁きを受けることに心を押しつぶされるような思いを覚えたのではないかと思いめぐらします。

f:id:holala:20210315204950j:plain

花壇のヒメスミレ 散歩道