クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

祈り、そして決断

 昨日に続いて、ゲッセマネの園での出来事を思いめぐらします。イエス様は「死ぬばかりに悲しい」ともだえ始め、三人の弟子に「ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」とお命じになり、少し離れたところで祈られました。イエス様が何を悲しんだのか、正確なことは分かりません。私なりに推測しました。イエス様は十字架の上で人類のすべての罪に対する神さまの怒りを身に受けることになるとイエス様は考えていたのではないかと思います。十字架の上で罪に対する神の裁きを受けるのです。でもそれが具体的にどういうものであるかはイエス様もご存じなかったのです。でも神の怒りを受けると想像しただけで身の毛がよだつというか、震えおののく思いをイエス様は経験されたのではないかと想像します。いくらそれが神さまの御心とはいえ、強いためらいを覚えます。

 イエス様は三度祈られました。最初の祈りは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」。マルコ福音書では、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。表現が少し違います。「取りのけ」は杯に象徴される苦難を味わわなくていいようにしてくださいとの祈りです。マタイの「杯を過ぎ去らせてください」は「そばを通り過ぎる」というような意味合いです。台風が直撃しないでそれることによって被害に遭わない、被害が少なくて済むということをイメージとして持ちます。杯が象徴する苦難を避けることができるようにとの意味になるかと思います。そのように自分の願いを祈りつつ、「御心のままに」と神さまにゆだねます。

 イエス様の二回目の祈りは変化します。「わたしが飲まない限り、この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。この祈りでは、苦難の杯をイエス様は飲む決心を明確にしているといえます。神さまの御心に従う覚悟を新たにしました。そして三度目も同じ言葉で祈られたとありますから、御自分の決心を父なる神さまに告げたことになります。

 イザヤ書の53章にある神の僕の苦しみは、イエス様も知っておられ、この僕のように自分が死ぬことは神さまの御心、ご計画であることをイエス様は知っています。でも悔いのない決断をするために、祈りの中で自分の気持ちを神さまに告げました。そして祈り続ける中で、神さまの御心に従う決心をされました。

 このイエス様の祈りがこうして聖書に書かれていることは、三人の弟子たちがこのイエス様の祈りを聞いたことを意味しています。彼らが聞いたから、こうして伝えられ福音書に記録されたことになります。ただし弟子たちはイエス様が祈っている間ずっと目を覚ましていることができず寝てしまいました。

 三度目の祈りを終えた時も弟子たちは眠っていました。でもイエス様は「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう」と十字架の死に向かって歩まれます。

 心の葛藤の中で父なる神さまに祈り、決断を新たにして十字架の死に向かって進む主イエスのお姿を見て、私も同じように歩みたいと願います。イエス様のように、私も歩みたいと思います。つまり、それは、いつの日か私が自分の死に直面する時です。実際にどんな形で直面するのか分かりませんが、祈って御国に向かう足取りをたしかにしたいと思います。

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