先週、「死ぬばかりの悲しみ」と題してブログを書きました。ゲッセマネの園でイエス様は、私は死ぬばかりに悲しいと言って、祈られましたが、この悲しみとは何か、思いめぐらしたことを書きました。イエス様の悲しみは神の悲しみであり、人が罪を犯すことを神は悲しむと書きました。
その黙想の続きです。
神は人間の罪を悲しみました。神は人を造り愛しているので、人が犯す罪を裁きます。それは神が聖なる神だからです。同時に神は愛の神であり、愛の神は、人間を救おうとなさいます。神の悲しみは神の愛となり、人間を救う愛となります。そして救い主イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。
神は人間が罪を犯す現実、人間が罪に支配されている現実を深く受けとめて、人間を救うべく、イエス・キリストを遣わしました。人間の罪を悲しむ神の愛は、人間を救う出来事となって現れ、神の悲しみは神の喜びに変わります。何を神は喜ぶのでしょうか。
人間を罪から救うという神のみ業は徹底したものだったと信じます。中途半端なものではないと信じます。徹底した救いとは何であり、神は何を喜ぶのでしょうか。
それは、人間が罪から解放されて、神の御心に生きるようになることといってよいと思います。神の救いは、罪の赦しだけで終わることなく、罪からの解放です。罪から解放されて人は神の子として、父なる神に喜んで従って生きる者とされます。