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隠退牧師 holala によるブログ

主イエスの悲しみとは

 今は12月。待降節です。私はマルコ福音書をデボーションしていて14章になりました。いよいよ主イエスの苦難、十字架の死が間近に迫ります。32~42節の黙想を紹介します。クリスマスに生まれた救い主の死が迫っています。

 主イエスは3人の弟子を連れて、ゲッセマネの園の奥に行かれました。そして恐れもだえつつ弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語り、「目を覚ましていなさい」と命じました。

 「死ぬばかりに悲しい」気持に主イエスはなぜなったのでしょうか。何が悲しいのでしょうか。主イエスの祈りの最初の言葉は、「この苦しみの時が過ぎ去るように」でした。次に「この杯を私から取りのけてください」と祈りました。いずれも十字架の死を避けさせてくださいとの祈りです。主イエスの悲しみは、十字架の死と結びついています。

 何が悲しいのでしょうか。主イエスの気持ちを推測します。

 主イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫びました。神に見捨てられる絶望を味わいました。その絶望がこの叫びになったと思います。

 神に見捨てられたときに感じる感情は何でしょうか。悲しみはその絶望に伴う感情といえると思います。神の御心に従い救い主として行動してきたが、こんなことになってしまったと悔いを感じたのでしょうか。それとも神に従順に歩んでいる自分は見捨てられる理由がないと、見捨てる神への怒りが生じたのでしょうか。悔いも怒りも悲しみをもたらすと思います。

 主イエスは、父なる神の御心に従い十字架に向かうことを受け入れていたので、十字架の上での絶望に対して怒りや悔いは生じないと思います。

 この絶望以外に、何か主イエスに悲しみをもたらすものがあるのでしょうか。今の私にはわかりません。やはり十字架の上での絶望を予感して悲しく思っているのではないかと考えます。

 主イエスは「この苦しみの時が過ぎ去るように」と祈られました。主イエスは苦しみを味わうことを予感しています。「この杯をわたしから取りのけてください」との祈りは、この苦しみを味わわなくてすむようにとの祈りです。

 「父よ、あなたは何でもおできになります」と祈っています。人間を救うための手段が他にあるなら、それを行ってくださいとの意味になります。しかし、御心にかなうことが行われるようにと祈りました。自分の願いより、御心の実現を優先されました。

 主イエスが、自分の願いを祈ったことは、神の前で祈る時、自分の願いを祈ってよいことを教えられます。キリスト者は御心にかなう祈りだけを祈るのではありません。自分の願いを祈ってよいし、何を祈ってもよいと主イエスは教えられました。でも御心が行われることを願うことも大切だと思います。

 私たちもまたいつの日にか死にます。それもまた悲しいことです。世を去るのも悲しいし、親しい者と別れるのも悲しいです。でも死を避けることはできません。罪を犯した結果、私たちは肉体の死を避けることができなくなりました。キリスト者にとって死は御国への扉です。

サザンカ