クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書 ルカ 6章17〜19節
説教 癒やし主イエス


 私どもが生きていく上で避けることのできないものの一つに病気があります。病気がちな人、病弱な人もいれば、病気とは縁のないような健康な人もいますが、病気にかからない人はいません。現代社会はストレスが蔓延しています。肉体的に健康な人でも何かが起きて大きなストレスに見舞われると心が病むこともあります。


 病気になれば私どもは治ることを考えます。医者に診断してもらい、薬を処方してもらいます。そのようにして治る病気がある一方で、治らない病気もあります。難病と言われる様々な病気、身近なものでは糖尿病など、病気を抱えて生きていかなければならないこともあります。そこで思わされるのは、病気のいやしとは何なのか、ということです。


 私どもが病気になると治ることだけしか考えないのかというと、そうではありません。病気が重かったり、治るのに時間がかかることが予想されると、癒やし以外のことを考えるのではないでしょうか。病気が重ければ、「死」を考えるかもしれないし、それに伴い、「生きる」ことを考えるでしょう。あるいは、それまでの人生を振り返り、今後どう生きるか、を考えることもあるでしょう。


 病気が人生について、生きることについて、自分の有り様について考えることのきっかけになるとしたら、病気のいやしとは、このきっかけを生かすことと言うことができるのではないでしょうか。そうなってこそ、病気になったことが無駄にならないと言えると思います。


 主イエスは祈るために山に登り、夜を徹して祈られました。そして朝になると弟子たちを呼び寄せ、12人を選んで使徒とされました。そして山を下りました。

17節では、平らなところにお立ちになったとあります。すると共にいた大勢の弟子とおびただしい民衆が来ていたと書かれています。


 主イエスはこれまで会堂で話をし、また病人を癒やすなどの活動をしてこられました。その語る言葉は素晴らしく、その癒やしは驚くべきもので、主イエスの評判は広く遠くまで伝わりました。


人々は「ユダヤ全土、エルサレム、またティルスやシドンの海岸地方」から来たとあります。今と違って新聞やテレビなどである出来事がニュースで一挙に遠いところまで伝わるわけではありません。口コミで主イエスの評判がどんどん遠くまで広がっていくのです。


 たくさんの人が集まってきました。

  • 病気で苦しんでいる人は、何とか治りたいという切実な思いで主イエスのもとに来たでしょう。
  • 子供の病気を治してもらおうと子供を背負って遠くから来た親もいるでしょう。
  • 汚れた霊につかれた人を家族に持つ人は、どうしたら治すことができるか分からずにいて、主イエスの評判を聞いて最後の希望を抱いて主イエスのもとに来たことでしょう。
  • 病気のために本当に苦しんでいる人、自分ではどうすることもできない人たちが主イエスのもとにやってきたのです。


 

「群集は皆、何とかして主イエスに触れようとした」(19節)

とあります。そして、すべての人の病気が癒やされました。

 このように病人を癒やす主イエスは、憐れみ深い方である、憐れみ深い癒やし主であると言ってよいと思います。まず、すべての人が癒やされています。時間がないから、疲れているから、といって主イエスは癒やすことをやめません。病気のために苦しんでいる人、その家族が、一縷の望みを抱いてやってきたのです。主イエスは彼らの望みに答えておられます。主イエスは自分の都合はお構いなく、苦しむ病人を癒やしています。主イエスは憐れみ深いお方なのです。


 次に主イエスは、安息日にも病人を癒やしています。安息日は仕事をしてはならないと定められているのです。命に関わらない病気なら、次の日に癒やせばいいのではないかと、律法学者たちは言うのです。神の教えを忠実に守ろうとする人は、そのように言うのです。しかし病人からすれば、一日も早く癒やしてもらいたいはずです。ですから主イエスは「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか.命を救うことか、滅ぼすことか」と問いかけます。そして病人を癒やします。病人のことを思っているのです。律法学者たちは、病人のことより、自分たちが神の教えを守ることの方が大切なのです。そして主イエスは律法学者たちからは、神の教えを破る者と非難を受けるのです。主イエスはそのような非難を恐れず病人を癒やす憐れみ深い方なのです。


 マタイ福音書では、このように自分のもとに集まってきた群衆を見た主イエスについて、こう書かれています。

「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)。


 主イエスは超能力者だから、病人を癒やされたわけではありません。主は、神さまから遣わされた救い主です。ルカ4章には、主イエスが来られた目的が書かれています。
「主がわたしを遣わされたのは、

  • 捕らわれている人に解放を、
  • 目の見えない人に視力の回復を告げ、
  • 圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(4:18〜19)。

主イエスが人々に語ったのは「神の国の福音」です。神の国の福音。つまり、

  • 神があなたと共におられます。あなたは神のご支配の中を生きることができますというメッセージです。
  • あなたは神にとって大切な存在であり、神に愛され、神の守りの中で、神の導きを受けて生きることができますというメッセージです。

 神は、あなたに捕らわれからの解放を与える方です。圧迫するものから、あなたを自由にします。目の見えない人に視力の回復を与える方です。そして、病気という捕らわれからの解放をお与えになりました。汚れた霊による圧迫からの自由をお与えになりました。主イエスによる癒やし、それはあなたを様々な束縛から解放する神がおられるというメッセージでした。


 病気を癒やされたり、汚れた霊を追い出してもらった人たちがこのメッセージを聞き取ったかどうかは分かりません。病気が治ればそれで十分と考えた人も沢山いたことでしょう。その人たちに、なぜわたしのメッセージを聞かないのかと責めることもなく、気前よく人々を癒やされました。主イエスは恵みに満ちた憐れみ深い癒やし主です。


 ここで主イエスの思いに心を向けたいとわたしはふと思いました。おびただしい人が主イエスのもとに集まってきます。この時、主はどんな気持ちだったのでしょうか。マタイ福音書を先ほど引用しました。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。これが主の気持ちだったと思います。


 一つだけはっきりしていることがあります。主イエスは、自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活するということを知っているということです。主イエスは、三度、弟子たちにご自分が苦しみを受けて殺されること、三日目に復活することを語っています。


 主イエスの目は、おびただしい群集を見ていたとしても、主イエスの目は、人々がもつさらに深い捕らわれ、人々が受けているさらに深い圧迫を見ていたのではないでしょうか。つまり人々が罪に捕らわれ、罪の支配下にいること、そして死の恐れに捕らわれていることを見ていたのです。人々は、そのことは余り気づかず、目で見える病気という捕らわれからの救い、汚れた霊からの自由だけを求めていたのです。


 最初に、病気になったら私どもは、病気が癒やされることだけを考えるわけではなく、人生のこと、生きること、死ぬことなどを考えるものだと申し上げました。病気は治ったとしてもまた別な病気にかかる可能性があります。また治らない病気と共に生きていくとしたら、どんな思いをもって生きていったら良いのでしょうか。そこで、病気の真のいやしということを考えることができるのではないでしょうか。


 先日受付の丸いテーブルの背後にある本棚を見ていたら『花のかおり』という本がありました。自費出版の本だと思います。何気なく読んでみました。著者は多発性硬化症という難病を発症した人です。阿南慈子(あなみいくこ)さんが著者です。


 阿南さんはカトリックの信者です。生まれてすぐ洗礼を受けているので、信仰を持った親元で育ったのでしょう。小学校からカトリック系の学校に通っておられます。

  • 27才で結婚され、長男長女を出産した後、31才の時に多発性硬化症という難病を発症しました。
  • 33才の時にこの病気が原因で失明しました。
  • 41才の時に、『花のかおり』という本を出版し、
  • 46才で亡くなられました。

 この方が癒やしについて書いていました。ヨハネ福音書の9章の最初の部分の引用から始まります。

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。

 長くなりますが、彼女が書いていることを紹介します。

この御言葉を読んだとき、『神のみ業が現れる』ということを奇跡によって目が見えるようになることだと思うかもしれない。超自然的な病の癒やしを私も心から信じている。そしてそのことは、確かに『神のみ業の現れ』であり、神の栄光の表れであることは言うまでもない。
 でも病が癒やされる、完治するということだけが、神のみ業の現れなのだろうか。私も病の完治イコール『神のみ業の現れ』とまでは言わないものの、かなりそれに近いイメージを持っていた。
 私は今年で、難病を発症して10年目となる。目が見えなくなってからは8年目。その間、やはり私なりに悲しいことも残念に思ったことも数々ある。だけど喜びも感動もこれまた人一倍多く与えられてきたことを言いたい。これらは目が見えないとか、難病を通してのみ感じられたものなのだ。
 これを思う今、この世の中の現実として数え切れないくらいたくさん存在する苦しみは、ただ無駄に無意味に存在するのではなく、受け取る人の心の方向をキリストに向けた時、尊い意味と価値をもって輝き出すのである。まるで宝物のように。・・・。
 病気でなかった時よりももっとすばらしい人生が送れるなら、これもまた神の栄光の現れと言いたい。このことを知った今、すべてを感謝することができる。そしてすべてのことが『神のみ業の現れ』となるように祈らずにはいられない」。

 長い引用でしたが、私はここに病気の真の癒やしが述べられているように思います。苦しみの中にあって、「心の方向がキリストに向く」、これです。病気が治ろうと病気と共に暮らさなければならなくなったとしても、「心がキリストに向く」時、病は真の癒やしを得るのです。


 主イエスは、ご自分の十字架の死を見ていました。そして病に苦しむ人がいやしを求めて自分のもとに来るのも見ていました。病気の癒やしを与えることはできました。そして十字架の死を通して、病の真の癒やしを与えるご自分の姿を見ていたのではないかと私は想像します。


 私どもが病気であろうとなかろうと、心がキリストに向いていない時、私どもは罪の支配のもとにあり、滅びに向かっているという病の中にあるということもできます。


 主イエスは、十字架に向かって歩まれます。十字架の死を遂げられます。それは、私どもの罪を償うための死です。このキリストの死を「贖いの死」と呼びます。贖いという言葉は聞き慣れない言葉ですが、二つの意味があります。


一つには「なだめる」という意味があります。つまり罪に対して怒りを持つ神に対して、その怒りをなだめるのが主イエスの十字架の死です。昔イスラエルの民は、罪を犯すが、動物をいけにえとして献げ、それを燃やします。すると良い香りが天に昇り、神の怒りをなだめると考えられました。さらに「買い戻す」との意味があります。私どもを罪と死の支配から神のご支配のもとに連れ戻す、買い戻す死だというのです。


 キリストの十字架の死、それは私どもの心をキリストに向かわせる死でした。阿南さんは、私どもの心の方向がキリストに向かうと表現されました。それは、私どもの心が神に向かうことと言い換えることもできると思います。

  • 神を人生の伴侶とすること、それは主イエスが与えてくださる真の病の癒やしです。
  • 神を愛し神に愛されて生きる、神の心を大切に考え、わたしを大切にしてくださる神に信頼して生きる、それが罪と死の支配のもとにいる人間の真の癒やしです。
  • いつも不満を数え、いつも人に対して不平を言い喜びから遠ざかっている自己中心の病から、神と人を愛することによっていつも喜び、すべてを感謝することへと私どもを癒やすのが主の癒やしです。
  • 神との関係をいつも大切に考える人、それが神の前に真に癒やされた本当に健康な人です。


 私どももまた、主イエスのもとに行きたいと思います。「いさおなき我を、血をもて贖い、イエス招きたもう、み許(もと)に我行く」。

祈り
 憐れみと恵みに満ちておられる天の父、あなたを崇めます。主イエス・キリストは、憐れみをもってみもとに来た者たちをその苦しみから救い出しました。今も、助けを求めて主のもとに行く者を顧みてくださるようにお願いします。
 また私どもを覆う罪と死の支配から、私どもを救い出すために、主が十字架について自らの命を捧げられたことを覚えることができますように。病気には、病気そのものの癒やしと真の癒やしがあることを教えてください。真の癒やしに私どもを生かしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。