主イエスは、神の戒め、律法を二つの戒めに要約されました。
- 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
- 隣人を自分のように愛しなさい。
そこで問題となるのは、どのような理由でこの戒めを守るのか、守る理由、根拠です。これをあいまいにしてはいけないと私は考えています。
まず、神の戒めを守るのはキリスト者の務め、キリスト者の義務という考え方があります。そうすると私たちの口から、神の教えを守らなければならないという言葉が出てきます。このように考えると、神の戒めを守ることが重荷・苦痛になることがあります。なぜなら、神の戒めの中には喜んで守れるとは限らない戒めがあるからです。守ることに抵抗を覚える戒めがあるからです。
このように義務として守るという考え方を聖書は律法主義と呼びます。言い換えると私たちは律法の支配下に置かれているということができます。律法が私たちの上に君臨して、私を守りなさいと私たちに語りかけます。私たちは律法に縛られていると表現することもできます。
そして使徒パウロは、言います。
ローマ 6:14
あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
私たちは律法の下にはいないというのです。つまり神の戒めを守ることを義務とは考えていません。「守らなければならない」と考える必要はありません。いや、守らなければいけないと考えてはいけないのです。でもそれは「守らなくてよい」ということではありません。恵みの下にいる者として、神の戒めを守ります。
あなたはどんな思いで神の戒めを守ろうとしていますか。
マタイ 11:28
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
戒めを守らなければいけないと考えて疲れているなら、主イエスのもとに行って休むことができます。「守らなければいけないと考える必要はないよ」との主のみ声を聞き続けてみませんか。
私もかつて、牧師としてあれをしなければならない、これをしなければならないと考え、つらく感じた日々を過ごしたことがあります。信仰の世界は義務に生きる世界ではありません。(続く)