クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

律法の役割

(クリスチャンの成長(68)キリストに結ばれて- 26)

 律法は、イスラエルの民に与えられた神の戒めの集合体です。律法は、それを守ること自体に祝福があります。神の戒めは、それを守ることに祝福があります。たとえば「盗んではならない」。これは十戒の中にある戒めです。皆がこれを守れば安心して生きていけます。しかしいつ盗みにあうのか分からない状態では、安心して生活できません。神の戒めを守ることは人に祝福をもたらします。

 イエス様も山上の説教など、大切なことを教えられました。その教えも祝福を与えるところに目的があります。私たちはイエス様の教えを神の教え、神の戒めと受けとめます。

 律法は神の戒めであるゆえに別の役割があると聖書は語ります。

ローマ 7:7
律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。

 律法は神の御心を表しています。それ故、律法を守らないことは神のみ心に従わないことになりますから、それは罪となります。聖書が語る罪とは、神の御心に背くことです。神の御心を重んじないことです。それ故、神の戒めを聞いたとき、それを受け入れたくない心が自分の内にある時、罪の意識が生じます。

ローマ 3:20
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 罪の自覚には二種類の自覚の仕方があると私は思っています。一つは理性による罪の自覚です。神の戒めを知り、自分がそれに背いたという結果から自分の罪を自覚します。あるいは神の戒めを知り、それに従いたくないと心の中で思うことから罪を自覚します。

 もう一つの自覚は神の導きとして起こります。自分の行動が罪であったと思い知らされるのです。それは神の働きと思わざるを得ない形で起こります。姦淫と殺人の罪を犯したダビデには、罪の自覚がありませんでした。そこで神は彼の家来ナタンによってダビデに彼の犯した罪を知らせました。イエス様のことを三度知らないと言ってペトロは、イエス様と目が合ったとき、自分の罪を知り打ちのめされました。

 律法には人を祝福する働きと罪を知らせる働きがあります。そして思います。本来人間を祝福するために与えられた律法を人は守らず、かえって罪を犯してしまうのはなぜなのかとの疑問が生じます。

 

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