クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私は律法の下にはいない

 (クリスチャンの成長(67)キリストに結ばれて- 25)

ローマ 6:14
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

 パウロはローマの信徒への手紙6章の最初で、洗礼を受けてキリストに結ばれたキリスト者は、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きる者とされたと書きます。

 神を知らずに生きる古い人が死に、神を信じて生きる新しい人が、私のうちに生きています。人格を持つ者としての「私」はキリストを信じる新しい人なのです。以前の古い人のように考え、行動することはできなくなります。礼拝に出席し、聖書の語ることに心を寄せ、信仰に生きようとしている「私」は、新しい命に生きている者です。この「私」は新しい命に生きるゆえに、律法の下にはいなくて、恵みの下にいるのです。

 私は日本人です。それゆえ私は日本国の憲法の下にあり、日本の法律の下にあります。私は憲法や法律を尊重し、これらを守らなければなりません。もし破れば犯罪者として裁きを受けることになります。現実には日本の法律を守らなければならない、と強く意識することはないと思います。多くの日本人は当たり前のように法律を守っています。

 キリスト者は神を信じるゆえに神の律法(戒め)を守る努力をします。洗礼を受けたキリスト者は神の戒めを知るにつれ、これを守らなければならないと考えるようになります。神の戒めは法律と違い、意識することが求められます。神の戒めは私たちの普段の生活の振る舞いについて関係してくるからです。守らなければならないと考える、これは律法の下にあるということです。

 キリスト者は色んな「~ねばならない」を抱えているのではないでしょうか。

 しかし「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいる」とロマ書に書かれています。キリスト者は洗礼をきっかけにして、つまりキリストに結ばれたことをきっかけにして、生きる世界が変わったのです。律法の下から恵みの下に生きる世界が変わったのです。

 律法の下にある人は、自分の力で神の戒めを守ろうとします。つまり自分の力で生きています。この世においては多くの人は自分の努力で、自分の力で生きるべきだと考え、そのように生きています。

 しかし信仰者は神の恵みの下にいるのです。神の恵みに支えら、神の恵みに導かれて生きています。「神さまにおゆだねします」と祈ることができるのも、恵みの下にいるからです。

 このようなキリスト者の特徴は、神を愛することです。神を愛することを大切にします。つまり神の御心を大切にします。ですから神の戒めを守らなければならない、とは考えません。神の戒めを守ることを義務とは考えません。むしろ神の戒めを守りたいと考えるのです。神の戒めは、それを守ること自体に神の祝福があると信じ、神の戒めを感謝と喜びをもって受けとめ、これに従おうとするのです。

 神の戒めを守らなければならないと考える心と神の戒めに喜んで従おうとする心には天地の差があります。キリストに結ばれキリストと共に新しい命に生きる人は、神の教えに喜んで従おうとする心を与えられ、この心に生きるのです。そしてもはや律法の下にはいないので、つまり神の戒めを守らなければならないとは考えず、心は自由です。神の戒めに喜んで従う心は、自由な心です。

ガラテヤ 5:13
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。

 キリスト者は神を愛することを大切にします。神を信じるとは、神を愛することです。キリスト者になったばかりの人は、このことがよく分からないかもしれませんが、キリスト者とは神を愛する人のことであることを覚えてください。信仰の成長とは神を愛するようになることです。神を愛する人は、次の聖句にアーメンと言います。アーメンと言えるように私たちは信仰者として成長します。

ヨハネ一 5:3
神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。

 

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明日香村、高松塚古墳