アダムが神に造られたとき、神はすべてがよかったと語りました。アダムが罪を犯し堕落したなら、元の状態に回復することが救いとなります。
ローマ 3:23
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。
創世記によれば人間は、神にかたどって、神の似姿に造られたとあります。人間には神を映し出すという役目、使命があります。しかし罪を犯した結果、神を映し出すことができなくなりました。つまり神の栄光を受けられなくなりました。
現代の世界では、人間世界には争い対立が満ちています。神は平和の神です。しかし人間が生み出す世界は、平和とは呼べません。神の似姿に造られた人間は、そのに姿を失い、争い対立を生み出しています。
もし、人間が争いをやめ、お互いに理解し合い、愛し合い、平和を生み出すなら、人間は神の似姿を回復すると言ってよいと思います。人は神を映し出します。神を証しすると言うこともできます。神を証しする、それが人間の最高の歩み、人間の栄光です。
しかし罪を犯した人間は、罪を犯す醜い姿をさらすようになりました。この栄光を取り戻す、これも救いです。それを別表現で言うと、キリストに似た者となること、と聖書は語ります。
コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、
鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。フィリピ 3:21
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
しかし、上に述べたような救いなんて考えたことがないという方もおられると思います。救いとは罪の赦しであり、永遠の命を得ることであると思っている方も多いことと思います。
そこで大切なことは、神はなぜ人間を造られたのか、しかも人間をなぜ、御自分の似姿に作られたのか、そのことの意味を知ることが大切となります(続く)。