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隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を知る(14)罪から救う神の愛

 神の愛は、私たちを罪から救う愛です。神の愛ですから、罪から私たちを完璧に救います。でもそれは私たちが二度と罪を犯さない人間になるということではありません。では罪からの救いとはどのようなものでしょうか。

 創世記3章のアダムとエバが罪を犯し堕落した話しは示唆的です。彼らは神の教えに背き、採って食べてはいけないと禁じられた木の実を採って食べてしまいました。何が問題だったのでしょうか。

 神は人間を自由な存在として創造されました。自由に造られたな人間には一つ問題があります。それは神の創造に問題があったからではありません。自由の持つ謎といえると私は考えています。その問題とは、人間の心には罪に傾く傾向、神に逆らう傾向があるということです。人間は神ではないので、何事でも自分の思い通りにできるわけではありません。そこで人間の心には、物事を自分の思い通りにしたいという根強い欲があります。この欲はしばしば罪となって現れます。アダムとエバは、この欲に負けて採って食べてはいけない木の実を食べてしまいました。

 罪からの救いには、第一に罪の方に傾いている心を正すことが欠かせません。人間は自分の力で心のこの傾向を正すことができません。神しか正すことはできません。神が正してくださいます。

 アダムとエバの物語には蛇が登場します。神は採って食べてはいけない木の実を食べるときっと死ぬと警告しました。しかし蛇は食べても死なない、と語りました。食べるように直接そそのかすことはしていませんが、蛇の言葉は木の実を採って食べるように誘惑する力があります。

ヨハネ一 2:16
すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。

 このように外から人間に罪を犯すように働きかける力があります。この世には色々な誘惑があります。罪に傾く心を持つ人間は誘惑に負ける弱さがあります。罪からの救いには、誘惑に負けないようにすることが必要です。人間は自分の力では誘惑に勝つことができず、誘惑に負け罪を犯すことがあります。罪を犯すように働きかける力に人間が負けないようにすること、これが罪からの救いには必要です。そうしないといつ罪を犯すか分かりません。これでは罪から救われているとは言えません。

 さらに罪を犯してきた人間の心は、罪で汚されています。罪を犯すことに慣れ、罪を犯して生きることが当たり前にさえなります。それゆえ罪で汚れた心を清めることも大切です。心を洗い清める、これもまた罪からの救いとなります。私たちを罪の汚れのない者にすることは、人間を創造したときの神の御心でした。

エフェ  1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

 罪からの救いを考えるとき、三つのことを考える必要があります。

  • 罪を犯す傾向に対する対策
  • 罪を犯すよう働きかける力に対する対策
  • 罪で汚れた心を清めるという対策

 神は救いの恵みとして、この3つの対策を施し、私たちを罪から救ってくださいます。神の愛は、私たちを罪から救うべく完璧な対策を、つまり救いの恵みを与えてくださいます。

 人間を罪を犯さないように導くことなくして罪からの救いはありません。神の愛がキリスト者を罪から救います。神の助けを得て罪からの救いを体験するときに、私たちは神の愛を、救いの恵みを知るようになります。

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