クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝説教 古い自分は十字架に


2024年3月17日、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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聞いていただけるとうれしいです。
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ローマ 6章1~11節
説教 古い自分は十字架に
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1.キリストと結ばれた私

 

→先月は、6章1~11節の前半をもとに説教をしました。

洗礼を受けたキリスト者はキリストに結ばれ、キリストと共に死んだこと。

キリストが復活したように、

キリスト者は新しい命に生きることをお話ししました。

新しい命に生きる、それは生まれ変わった者として生きることです。

キリスト者は、新しく生まれた者です。

 

→キリストと共に死んで生きるということ、

新しく生まれたということは実感できるとは限らず、

信ずべきことであるとお話ししました。

信仰とは、信じて一歩を踏み出すことです。

皆さんは、新しく生まれた者として、もう長い間

神を礼拝し、聖書を読み、神に祈る生活を続けてこられました。

今日は、新しく生まれた者として生きることがどのようなものなのか、聖書から聞きたいと思います。

2.古い自分が死んだ

 

→6節

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 

→私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたとあります。

私たちの古い自分が死んだのです。

どういうことでしょうか。

 

→まず「自分」とは、「私」を指す言葉です。

これから説教で「私」という言葉を何回も使いますが、

それは私つまり堀江を指す言葉ではなく、

人格を持った人間が自分のことを語るときに使う「私」であることを念のため、お伝えしておきます。

説教の中で「私」が出てきたら、それは皆さん自身のことです。

 

→「私」は、ひとりの人格を持った人間です。

皆さんは、人格を持ったひとりの人間です。

人格を持ったひとりの人間、それが「私」です。

人格を持つ人間である「私」は、自分の行動を決定し、行動します。

「私」は人格を持った人間として、自分で考え、決断し、行動します。

 

→それでは古い自分、古い「私」とはどういう「私」なのでしょうか。

それはキリストを信じる以前の「私」を意味します。

洗礼を受けたとき、「私」はキリストと共に死にました。

洗礼を受けたとき、「私」はキリストと共に十字架につけられました。

洗礼を受ける以前の「私」を古い私と言います。

洗礼を受ける以前の「私」は死にました。

 

→洗礼を受けた「私」は、

キリストが復活したように、新しい命に生きる者となりました。

新しい「私」が生きることとなりました。

今や自分は、新しい自分、新しい「私」になりました。

 

→新しい自分つまりキリストを信じる「私」は、

キリストに結ばれた「私」、新しい命に生きる「私」です。

この新しい「私」には特徴があります。

・罪を犯したいとは決して考えません。

・罪を犯すのは仕方がないとは考えません。

・キリスト者なので、罪を犯さず神の御心に従って生きていきたいと考えます。

キリスト者はキリストに結ばれて、このように考える新しい「私」へと生まれ変わったのです。

 

→ここで「私」と「私の心」を区別することは大切です。

「私の心」は、「私の心」ですが、「私」ではありません。

なぜなら「私」は、「私の心」を眺めること、観察することができるからです。

今自分はこんなことを考えている、こんなことを感じている、

こうしたいと願っている、

こういうことを人格としての「私」は知ることができます。

その上で、私の心が考えていることについて、そうだよな、

と人格としての「私」は同意したり、

いやそんな風に考えてはいけないと

考えを改めるように心に働きかけることができます。

 

→先ほどキリスト者として新しく生まれた人の特徴をあげました。

もう一度繰り返します。

・罪を犯したいとは決して考えません。

・罪を犯すのは仕方がないとは考えません。

・キリスト者なので、罪を犯さず神の御心に従って生きていきたいと考えます。

私たちの心は、自分が罪を犯すことを知っていますから、

このような特徴が語られると、

それは自分には該当しないと言うかも知れません。

しかし「私」と「私の心」は区別することが大切です。

キリストに結ばれたキリスト者は、このような特徴を持った者として、新しく生まれたのです。

 

→私・堀江は、迷いなく、告白します。

・罪を犯したいとは決して考えません。

・罪を犯すのは仕方がないとは考えません。

・キリスト者なので、罪を犯さず神の御心に従って生きていきたいと考えます。

神さまは信仰者堀江を、洗礼を通してキリストに結び合わせ、

このような特徴を持つ信仰者に生まれ変わらせてくださったと

信じるからです。

 

→残念ながらキリスト者は罪を犯します。

なぜ罪を犯すのか、そのことを理解すれば、

皆さんも、このような特徴を持つキリスト者にされていることを確信できると思います。

 

3.罪を犯すとはどういうことか

 

→私たちはなぜ罪を犯すのでしょうか。

それを理解することは、罪に打ち勝つという意味で大切と考えます。

 

→聖書は、罪を犯すように私たちに働きかける力があると語ります。

たとえば創世記3章、エデンの園に蛇が登場します。

蛇は罪を犯すように、エバを誘惑しました。

罪という言葉には、人間に罪を犯すように働きかける力という意味があります。

キリスト者が罪を犯すとき、それはこの罪の力に負けてしまうのです。

蛇はエバに、神が禁じた実を食べれば賢くなれるよ、と誘惑します。

エバが木の実を見ると、おいしそうで食べたくなりました。

おいしくて賢くなれる木の実、食べたいし、

食べて何がいけないの、とエバは思います。

罪は無理矢理強引に私たちに罪を犯させるわけではありません。

むしろ私たちを引き込む魅力をもって罪へと誘うのです。

 

→6節。「罪に支配された体」とあります。

この罪の力は、私の体に働きかけます。

ここでは「体」は、私という存在を表します。

私の体とは、私の「肉体と心」です。

私の肉体と心は、罪が攻撃する標的になります。

罪は私たちの肉体と心に働きかけます。

私たちがキリスト者になっても、罪の攻撃は続きます。

どのようにして働きかけるかというと、

私たちのうちに「欲」を起こすのです。

 

→たとえば、先ほどのエバを誘惑した蛇。

食べれば賢くなるよとプライドを刺激します。

私が賢い者となる、いいじゃない!

エバはその気になってしまいました。

 

→あるいはイスラエルの王ダビデ。

ある日の午後、ダビデは王宮の屋上を散歩していました。

彼は、一人の女が水浴びをしているのを見ました。

彼の性欲がむらむらと膨らみました。

罪はダビデの肉体に働きかけました。

さらに自分は王である、王なら、

あの女を自分のものにしていいのではないか、と考えます。

自分は王だ、自分のしたいことをして何が悪い。

罪はダビデのプライドに働きかけました。

かくしてダビデは、姦淫の罪を犯しました。

また彼女から身ごもったとの知らせを受けたときは、

自分の罪がばれないように

彼女の夫を戦場で死ぬように仕向けました。

殺人の罪も犯したのです。

 

→ガラテヤ書でパウロは、肉の業を語ります。

肉の業、私たちが肉体と心を持つゆえに犯す罪のことです。

 

5:19~21

肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、

ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

 

→罪は、私の肉体と心に働きかけます。

古い自分、古い「私」は、罪の攻撃に対して無防備でした。

罪を犯すように働きかける力がある、

だから人は罪を犯します。

そしてキリスト者も罪を犯します。

 

4.罪の体が無力化される

 

→古い自分が死んだのは、

「罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。

 

罪の体が滅ぼされ、とありますが、意味としては、

罪の体が無力になると訳した方がよいと思います。

罪の体とは、私の肉体と心を意味します。

私の肉体と心は罪の攻撃の標的です。

罪は、私の肉体と心に働きかけ、欲を起こし誘惑します。

この欲に負けると私は罪を犯します。

キリスト者になっても罪は攻撃してきます。

しかしキリスト者になると罪の体が弱くなり、

罪を犯す欲、誘惑が弱くなっていきます。

 

→なぜならキリスト者は信仰生活を送ります。

礼拝生活をし、神との関わりに生きるようになります。

説教を聞き、また聖書を読みます。

神さまがどのような方であるかが分かってきます。

神さまが願うキリスト者の生き方が何であるか、分かってきます。

人格を持つ「私」、キリスト者の「私」は御心に従って生きようと

強められます。

そうするとキリスト者の心は、影響を受けます。

心は神の御心を大切にする心へと変えられていきます。

罪の攻撃に対して抵抗する力がついてきます。

 

→キリスト者はキリストに結ばれています。

キリスト者は神の恵みの支配下にあります。

キリスト者が、罪は犯したくない、

神の御心を行って生きていきたいと考えるのは、

キリストに結ばれているからであり、

聖霊がキリスト者のうちに住んでおられるからです。

すると「私」、キリストに結ばれた人格としての「私」は強められるのです。

 

→神の御心を大切にするように心が変えられていきます。

神の御心に従うことを喜びとするように心が変えられます。

すると罪に打ち勝つ力が与えられ、罪に打ち勝つようになります。

罪を犯したくない、神の御心に従いたいとの思いが強められ、

キリスト者の心はきよめられていきます。

 

5.罪の奴隷からの解放

 

→キリスト者は洗礼を受けると古い自分がキリストと共に死にます。

そしてキリストが復活したように、新しい自分が生きるようになります。

新しい自分は、新しい「私」は、罪を犯したくない、神の御心に生きていきたいと考えます。

キリスト者につながっておられるキリストが、

キリスト者の内に住まわれる聖霊が、

新しい「私」を支え強めてくれます。

その結果、キリスト者は罪の奴隷から解放されていることを実感します。

 

→キリスト者が洗礼を受け、キリストに結ばれ、

新しい自分になったとき、新しい「私」は罪から解放されました。

なぜなら、新しい「私」は、罪を犯したくないと考え、

神の御心に従って生きていきたいと考えるからです。

この考えを支配することは罪にはできません。

罪が攻撃できるのは、私の肉体と心だからです。

心は罪からの影響を受けます。

私の心は私の心ですが、「私」ではありません。

「私」は、罪に誘われた心が願うことを拒むことができます。

 

→キリスト者としての私が信仰生活を続ける中で、

聖書に親しみ神の御心を知り、

神に祈りつつ御心に従う努力をする中で、

私の肉体と心も罪の働きかけに対して抵抗できるようになり、罪の支配に屈することがなくなります。

 

→キリストに結ばれたキリスト者は

神の恵みの支配のもとにおかれています。

罪の支配下から恵みの支配の下へ移ったのです。

 

コロサイ 1:13

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

 

私たちキリスト者はキリストに結ばれ、新しい自分となり、罪との戦いはありますが、罪から解放されて生きる者とされました。

私たちはキリストに結ばれ、キリストの助け、聖霊の導きに生きる者とされました。