クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰生活の出発点(5)「私」と私の心の区別

ローマ 6:6
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 罪から解放されて生きるために、どう考えたらよいのか、私自身ようやくスッキリしたように思います。

 まず罪から解放されるとは、罪を犯さなくなることではなく、罪との戦いはいつもあります。でもこの戦いに勝利することができ、もはや罪に支配されることはありません。これが罪から解放されているということです。時に、キリスト者は罪を犯します。罪に負けます。でも罪の支配は絶対的ではないので、罪と戦うことが大切です。

 キリスト者が罪と戦うためには備えが必要です。まず神の恵みを信じます。その恵みとは、洗礼を受けたキリスト者はキリストに結ばれていること、キリストと共に死に、キリストが復活されたようにキリスト者は新しい命に生きていること、これを信じることが大切です。あるいは、このように「考える」ことが大切です。

 キリストと共に死ぬということは罪に対して死ぬことを意味します。死んだ者に対して罪は何も働きかけることができません。キリスト者は罪の支配から自由になりました。キリスト者は罪に対して死んで神に対して生きるようになりました。

 キリストご自身も罪に対して死なれました。だからキリスト者も罪に対して死んだのです。キリストはどのようにして罪に対して死なれたのでしょうか。キリストは罪が人間を支配する世に来られました。ご自身は一切罪を犯しませんでした。しかし律法学者、ファリサイ派の人々によって裁判で死刑を宣告され、十字架につけられました。イエスは罪の支配に身をゆだねたのです。しかし十字架で死んだ後は、罪はイエスに対して何も働きかけることはできません。それどころか、イエスは復活されました。キリストに結ばれたキリスト者も罪に対して死に、罪の支配から自由になりました。

 ここで大切なことは、「私」と私の心を区別することです。「私」とは人格としての「私」です。「私」は自分の心を観察することができます。自分の心が誘惑になびきそうだとか、赦せない思いで一杯であるとか、他者を裁く思いで満ちているとか、思い煩っているとか、自分の心の状態を「私」は観察することができます。人格としての「私」と私の心は別であることを知ることが大切です。

 キリスト者としての「私」は、罪の支配から自由です。そして神の御心に従いたいと考え、従う歩みをします。罪を犯したいなどとは考えませんし、罪を犯したいと欲することもありません。

 そして「私」とは異なる、私の心があります。私の心は、「私」の一部ですが、「私」ではありません。この区別が大切です。聖書は「罪に支配された体」を語ります。体は心と肉体に分けて考えてよいと思います。罪は私の体に働きかけ、欲望を起こさせます。

 神は、園の中央にある善悪の知識の木から取って食べてはいけないと命じました。女のもとに蛇が来て、「取って食べても死なないよ、食べると賢くなることを神は知っているのだよ」と語りました。

 そして女が木の実を見ると、とても美味しそうで、食べたら賢くなりそうに思えて、食べたいとの欲が湧いてきて、ついに食べました。

 蛇が近づいたことがきっかけで、食べることを禁じられた木の実を食べたいとの欲が生まれました。体は欲望を生み出すのです。「私」は、その木の実を食べてはいけないことを知っている。私の体は食べたいと言う。食べようよ、と「私」に迫ってくる。その時、どうするかです。体を持つ限り、体の欲望というのは常にあります。世の人は、体の欲望に従うことにためらいはありません。

エフェソ 2:3
わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

 肉の欲望と体の欲望は同じです。キリスト者になっても肉の欲望は、心のうちに生じます。肉の欲望には、楽しみや、喜び、満足が伴うので、欲望に負けて罪を犯すことがキリスト者にもあります。

 しかしキリスト者のうちで働かれる聖霊の助けによって、体の欲望は力を失います。欲望の方へ傾きつつある自分の心を見て「私」はどうするかです。

フィリピ 2:13
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

「私」が御心に従いたいと考えるのは、神の働きを受けた結果です。神が私を導いてくださっているのです。それでも欲望に走るのか否か。罪に走るのか。どうするキリスト者?

立山 2012.8