クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰生活の出発点(6)「私」と私の心の区別の実例

 インターネットを利用して調べ物をしたり、興味あるブログを読んだりすることがよくあると思います。インターネット上のサイトを見るときに、多くの場合広告が表示されます。時には性的に目を惹くような広告・画像があります。私は目を背けます。

 主イエスは教えられました。

マタイ 5:27~28
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 人は体を持ちます。目を通して性的なイメージを醸し出す広告・画像を見ると、心は反応します。目が惹きつけられるのです。体を持つ人間の性(さが)です。すると、見たいとの欲望、体の欲望が生じます。そこで見入るか、目を背けるか、それは人格としての「私」が判断します。「私」はキリスト者として神の御心に従う歩みをしたいので目を背けます。

 もちろんキリスト者であっても、ふっと見入ることはあります。もし主イエスの上記の教えを知らなければ、見入っても不思議ではありません。主イエスの教えを知っていて見れば、悔いることもあります。キリスト者が見入るか、見ないか、それを判断するのはその人自身です。体の欲望に従うか、拒むか、それはその人自身がどう判断するかです。

 繰り返しになりますが、性的な広告・画像に目が行くのは、ある意味、本能的な反応であり、そこに罪は関係しないと私は理解します。問題は、そこでどうするか、です。目を背けるのか、見入るのか。それが大事だと私は考えます。

 昔、ある女性教会員の方が、職場の後輩に対する批判をよく聞かせてくれました。キリスト者なんだから、ああすべき、こうすべきと批判するのです。ああ、この人は人を裁いているなと思いました。そういう話しを聞くのは嫌だなと思うようになりました。やがて私自身が彼女を裁く思いを抱くようになりました。人の言葉を聞いて、批判する思いが湧いてくる、これはよくあることです。人を批判し、自分を正しい者としたいという体(心)の欲望の結果です。

マタイ 7:1
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

 彼女の話しを聞いていく中で、私の心の中に彼女を裁く思い~キリスト者なのに他者を裁くなんて~があることに気がつきました。そこで私は彼女に「後輩のために祈りましょう」と勧めました。それ以来、彼女は後輩のことを私に話すことはなくなりました。彼女がどう思ったかは分かりませんが、私は彼女のために執り成しの祈りをするようになりました。

 私たちの心には色んな思いが生まれます。思いが湧いてくることは制御できないので、思いが湧いてくる自分を罪深いとは、私は考えません。大事なのは、その思いにどう対処するかです。「私」はどうするかです。

 妬み、恨み、反感、怒りなどが心の中に湧いてきます。これらは体の欲望として、心の中に生じます。私の心の中にプライドがあり、私たちはプライドを保ちたいと考えます。それゆえ、様々な思いが心の中に生じます。大事なのは「私」(自分)が、どう対処するか、です。それに流されるのか、キリスト者として別なあり方を探るか、です。

 キリスト者として悪しき思いに対して神の御心に従うように対処していくとき、段々、悪しき思いが湧いてこなくなります。湧いてきてもスッと消えていきます。悪しき思いが湧いてくるから自分は罪深いと考えて、そこで立ち止まっているといつまでもそのままです。「私」は罪から解放されていますが、体を通して悪しき思いが湧いてきます。そこでキリスト者としてどう対処するか、です。信仰の戦いです。

ヘブル 12:4
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

「私」は罪から解放されていると信じます。これが信仰生活の出発点であると私は考えています。

立山 2012.8