ローマ 6:6~7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。
何かを感じる自分、何かを考える自分、何かを決断し行動する自分。その自分を「私」と呼ぶことにします。つまり「私」は、何かを感じる感情を持っています。何かを考える理性を持っています。何かを決断する意志をもっています。感情、理性、意志を合わせて心というなら、私は心を持っています。でも「私」と私の「心」は同じ(同一)ではありません。「私」は心を持っていますが、「私」は心ではありません。
同様に「私」は肉体を持っています。この肉体を見て人は「私」の存在を認識します。この肉体がなければ、誰もわたしを認識できません。「私」と「私」の「肉体」は同じではありません。「私」は肉体だけの存在ではありません。
心も肉体も「私」の心であり、「私」の肉体であり、「私」の一部です。心と肉体を合わせたものを「体」と呼ぶことにします。体は「私」の体ですが、「私」の一部であり、「私」そのものではありません。「私」は「私」という人格をもつ人間です。
6節には「罪に支配された体」とあります。キリスト者であり、「私は罪を犯したくない」と言う「私」は罪から解放されています。なぜなら、古い「私」はキリストと共に死んだからです。古い「私」、神を知らず罪を犯して平気だった「私」、罪に支配されていた「私」は死んだのです。古い「私」はキリストと共に死んだのです。そして新しい命に生きる「私」となりました。
ローマ 6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
新しい命に生きる「私」は、「罪を犯したくない、神の御心に従って生きていきたい」と考え、そのように歩んでいます。
神の戒めに背くことを罪と言います。罪にはもう一つの意味があります。人に罪を犯すように働きかける力としての罪です。律法が貪るな、と命じると貪りたくなるのは、この罪の働きです。
では、罪から解放された「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。罪を犯したくないと強く考え、意志する「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。それは私たちが体を持っているからです。
ガラテヤ 5:19~21
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
私たちが体を持つので、私たちは肉の業を行います。つまり罪を犯します。人間には性欲があります。性欲自体は悪いものではありません。子孫を残すために人間に与えられています。しかしこれが欲望に変わると、姦淫、わいせつ、好色となって現れます。そんな人間の欲望を満たすべく、商品化されたものが色々ありますし、犯罪が行われています。
「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」などは、他者との関係において起きる罪です。人間には心があります。人間は自己中心的で、自分を大事に考え、利己的に振る舞う傾向があります。その傾向が強くなると、人間の心には、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」などが生まれ、それが罪の行動となって現れます。他者よりも自分を大切にしたいという欲望がこれらの罪の根底にあります。
「泥酔、酒宴」。酒は楽しみとして飲むことは神の御心に反しません。百薬の長とも呼ばれて、よいものです。しかし飲み過ぎは、良くありません。健康に悪いし、周囲の人と争いを起こしたりします。飲み過ぎは快楽を追求する欲望です。
私たちは「体」があるために、罪の働きかけを受けます。そこで次のような警告が生じます。
ローマ 6:12
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
「私」は罪を犯したくないと考えますし、罪から解放されています。しかし、「私」の体を通して、罪が「私」に働きかけるのです。そのことをパウロは「罪に支配された体」と語ります。人格としての「私」は罪から解放されています。だから「罪を犯したい」とは考えません。しかし「私」の体を通して、罪が「私」に働きかけるのです。これは厳然たる事実です。どんなキリスト者にも「体」を通して罪は働きかけます。そして時に「私」は罪を犯します。