クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰生活の出発点(3)私は罪を犯したくない

 世の人は、罪を犯すとは法を破ること、犯罪とされることを行うことと考えます。だからクリスチャンから「あなたは罪を犯している」と言われると「そんなことはない」と否定し、怒ります。自分は罪を犯すような人間ではないと主張します。犯罪を行わない善人であることがその人の誇りとなっています。

 キリスト者にとって罪を犯すとは、法律を破ることではなく、神の戒めに背くことです。礼拝に出席し、聖書を読み、キリスト者としての生き方、神の戒めを知るようになるとキリスト者は、「自分は罪を犯したくない」との思いを持つようになります。もしこの思いを持たずにキリスト者を名乗る人がいたら、その人はまだキリスト者になっていないというべきだと思います。やがて導かれ、この思いを持つようになると思います。

 実質的な信仰生活の出発点は、「自分は罪を犯したくない」との思いをもって生き始めるときだと私は考えます。実質的と言ったのは、洗礼を受けた時が信仰生活の出発点であると言われるからです。あえて実質的と言ったことには理由があります。洗礼を受けるときの人の思いは様々だからです。

 ある人は礼拝にしばらく通い、クリスマスの時期が近くなり、牧師から洗礼を受けませんかと言われ、信仰のことがよく分からなくても洗礼を受けるということがあります。その人はまだ「自分は罪を犯したくない」との思いを持っていないことがあります。でも礼拝生活を続け、聖書を読み、神の戒めを知る中で、「罪を犯したくない」と考えるようになります。その時を、実質的な信仰生活の出発点と私は呼びたいと思っています。

 「罪を犯したくない」と思っていても、罪を犯すことはあります。それは罪になるからしてはいけないと心の中に抑制が働いても罪を犯したいと考え、行動に踏み切り、罪を犯してしまうことはあります。人が罪を犯すのは、そこに一種の快感、喜び、満足があるからです。

 あなたが「私は罪を犯したくない」と真剣に考えているなら、あなたは罪から解放されていますと言ったら驚かれるでしょうか。現実には罪を犯すことがあるので、罪から解放されていると実感できないと言われるかも知れません。「罪から解放されている」、これは聖書のメッセージです。

ローマ 6:6~7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。

 私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたとは、罪を犯しても平気な人間がキリストと共に十字架につけられたことを意味すると理解します。以前の「私」は罪が何であるかを知らず、罪を犯しても平気でいました。今、以前の「私」、古い人は死んで、いなくなりました。今の「私」は「罪を犯したくない」と考えています。これは大きな変化です。

 「罪を犯しても平気な人間」は死にました。今の「私」は罪を犯したくないと考えます。「罪を犯すのは仕方がない」とはもう考えません。罪の誘惑が来ても、「私」は拒むことができます。「私」は、罪の働きかけに「ノー」と言うことができます。

 いくら「ノー」と言っても罪を犯してしまうなら、その人は罪の奴隷です。しかし洗礼を受けたキリスト者は、キリストに結ばれています。彼にはキリストの助け、神の助けがあります。聖霊の助けがあります。キリスト者は神に助けを求め、具体的な罪について「ノー」と言うだけではなく、罪を拒むことができます。もはや罪の奴隷ではないのです。だから「私は罪を犯したくない」と真剣に考えるキリスト者は罪から解放されていると私は理解します。

 ではなぜ、クリスチャンは罪を犯してしまうのか、それは「罪に支配された体」が関係してきます。

立山 2012.8