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隠退牧師 holala によるブログ

受難節黙想 ルカ 22:39~46 葛藤の祈り

ルカ 22:42
 父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。

 イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさいと言われ、石を投げて届くほどの所へ行き、そこで祈り始めた。

 まず、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られた。杯は苦難を象徴している。つまりこれから自分が死に直面する事態を避けることができるなら、避けさせて欲しいと祈られた。イエスは救い主としておいでになった。イエスが死ななくても人類を救う方法があるのなら、それを実現してくださいとの願い。イエスはまず自分の願いを祈った。

 続いて「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈った。イエスは自分の願いを告げた後、父なる神の御心の実現を願った。自分の願いは告げるが、神の御心の実現をあくまで祈られた。父なる神への従順が示される。神の御心の実現を祈ることは当然であり、冷静に祈っているように思える。

 しかしイエスは、さらに祈り続けた。しかもイエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られたとある。なぜイエスの祈りは苦しみもだえる祈りとなったのか。

 自分の願いと神の御心が行われることとが対立することがある。その場合、祈る心の中に葛藤が生じる。自分の気持ちを定め、御心に従うという結論に至るために、苦しみもだえて祈られたのだろうか。

 自分の願いを捨て、神の御心が行われるように祈ることは簡単なことではない。心の中に葛藤が生じている。その葛藤を静め、御心が行われるようにと心を決めるまで、苦しみもだえる祈りをしたと言うことか。

 イエスは苦難の死に直面している。間もなく死ななければならない。自分の願いではなく、御心のままになさってくださいと言う時、それは間近に迫った自分の死を覚悟することである。十字架の死を受け入れるとするなら、平静に祈ってはいられないのかもしれない。

 祈り終わって、イエスは立ち上がる。父の御心が行われるように、つまり目の前にある自分の死に向かって進むべく立ち上がった。

 父なる神の御心に従うイエスが描かれている。イエスは救い主として神から与えられた役割に徹する。たといそれが十字架の死であっても。その覚悟が定まって立ち上がった。

 神に従おうとする時に心に葛藤があることを教えられる。キリスト者なら、大なり小なり、み心に従おうとする時に心に葛藤を覚える経験はある。自分の思いに従って、神の御心に背いたこともあるだろうし、み心に従ったこともあるだろう。イエスは葛藤を覚えつつ、苦しみもだえながら祈り、御心に身を任せることにした。このイエスに倣う者でありたい。苦しみもだえて祈る姿に。

サンシュユ 馬見丘陵公園