クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私の好きな聖句(5)使徒言行録4章29-30節

主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが
思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気が癒され、
しるしと不思議な業が行われるようにしてください。

 これは初代教会の使徒たちの祈りです。そして牧師として現役の時の私の日々の祈りでした。「御言葉を大胆に語らせてください」と祈らない牧師はいないでしょう。では使徒たちの後半の祈りはどうでしょうか。ペンテコステ系の先生でしたら間違いなく祈るでしょう。異言も、奇跡も、今もなお聖書に書いてある通りに起きると信じているからです。神は生きて働かれる神で、神の国が私たちのただ中にあるから奇跡は起きても不思議ではないと考えるのです。

 私も神さまは生きて働かれる神さまですから、癒しは起きると信じています。マルコ福音書の最後には、「信じる者には次のしるしが伴う。病人に手を置けば治る」(マルコ16:18)。これは主イエスの癒しの約束と私は受けとめています。

 現代は医学が発達しました。癒しを祈らなくても、医学の力で大半の病気は治ります。牧師として病人を見舞えば祈ります。多くの場合「癒やされるように」と祈ります。ある時、私は思ったのです。「病気がいやされると本気で信じて祈っているのか」と。心のどこかに冷めた思いがあって、この病気なら治るな、と考えたり、これはもう治らないなと判断して、「いやして下さい」と祈っていないのか、と。自分は牧師のお勤めとしての祈りをしているのではないかと思ったことがあります。

 神さまが生きて働かれる神さまであると知った時から、心から癒やしを信じて祈るようにしました。癒されるのは神さまです。人間の願い通り、思い通りにはなりませんが、いつも生ける神さまに期待して信仰に生きるのが私の信条です。そして病気の方にも生きて働かれる神さまに期待して欲しいと願って祈っています。

 この頃思うのは、病気の人を前にして祈る時は、病人に「何を祈って欲しいか」と聞いて祈りたいということです。

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