クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

祈りがかなえられないとき

 20年以上も前のことになりますが、教会員の方の息子さんが病気になりました。結婚しておられ、小さな子供さんがいます。教会員の方と共にいやしを祈り求めましたし、また私も祈りの時にその方のいやしを祈り求めました。

 私は彼が癒やされるにふさわしい理由を色々あげて神さまに祈りました。「彼はまだ若いし小さな子供もいます。彼を憐れみ、癒やしてください」。主イエスは御自分のもとにつれて来られた病人を皆癒やされました。私も主の御名によって祈っているので「主よ、昔のように、彼を癒やしてください」。求めなさい、そうすれば与えられると主イエスは教えられました。「だから求めます、癒やしてください」。

 しかし残念ながら癒やしは与えられず、息子さんは亡くなりました。息子さんの葬儀を行いましたが、何を語っていいのか分かりませんでした。そしてしばらくは、病気の癒やしのために祈る気持ちになれませんでした。

 人は、必死に祈ったことがかなえられないとき、心が傷つきます。そして次に必死に祈る時、かなえられなかったら、との不安が心をよぎります。神さまに対する失望が心の底に横たわっているのです。何事もない生活の時は、表に出てきませんが、必死に祈ることがあって祈る時に、不安が湧いてくるのです。もしかなえられなかったらどうしようかとの不安。かなえられないことが重なっていくと、神さまに対する不信が芽生えてきます。

 どうしたらいいのか、どう考えたらいいのか、と思います。そこで二つのことを考えます。

 一番目は、キリスト者にとって祈りとは、神さまの御心の実現を祈ることだと考えることです。神さまは私たちを顧み、私たちの生活を顧みてくださる方であり、私たちにとって最善を導いてくださる方であると信じます。私たちが願う最善と神さまが用意しておられる最善は同じとは限りません。神さまが用意してくださる最善を選びます。神さまの御心の実現を願うわけです。自分の願いがかなわなかったとき、その願いは神さまの御心ではなかったとことになります。

 二番目は、私たちの身に何が起きようと、神さまは信仰によって生きるように私たちに呼びかけていると信じます。自分の祈りが聞かれなかったとしてもなお神さまに信頼して生きることを選びます。自分の願いがかなうか否かによって、神さまに対する信仰の姿勢が変わるとするなら、それは聖書が伝える神信仰に生きることになるのでしょうか。自分の願いがかなうことで神信仰が続くなら、それは偶像礼拝になってしまいます。

 そして一方で神さまに対する不信や疑問を抱きながら、他方で神に信頼するという信仰は不安定です。それが私たちの信仰生活の現実かもしれませんが、不安定な信仰です。

 今日はブログを書きながら、自分の気持ちが整理されたように思いました。祈りが自分の願った通りになるか否か、こだわり過ぎない方がよいと思わされました。信仰とは神への信頼であり、神の呼びかけに生きることであると確認しました。

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