信仰者になっても罪を犯す私たち。その私たちを神さまはどうご覧になるのでしょうか。私たちを義と見てくださるのでしょうか。それとも罪に定められるのでしょうか。
神さまは私たちを義としてくださると考えたらどうなるのでしょうか。ありがたいです。罪を犯しても安心できます。赦してもらえるし、義としてくださるからです。安心してありのままで、つまり罪深い私たちのままでいることができます。
でもよく考えると、神さまは信仰者を甘やかしているようにみえます。信仰を持たない人から見たら、罪を犯しても赦してもらえると言って罪を犯し続ける信仰者を受け入れる神って、どうなの、と疑問を持つのではないでしょうか。
それとも神さまは私たちを罪に定めるのでしょうか。罪を犯す者を罪に定めるのは義なる神にふさわしいことです。しかし罪人を義とする神さまではなかったでしょうか。
神の前に罪を犯す私たちを神さまはどう見られるのでしょうか。神さまは私たちを義と見てくださいます。その理由は以下の通りです。
罪を犯す者たちを赦し、義とし、受け入れてくださる神さまは、信仰者に何を願うのでしょうか。神さまの御心を聖書から知ることができます。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。(エフェソの信徒への手紙1章4~6節)。
神さまのご計画は、イエス様を信じた者たちを聖なる者、汚れのない者にすることです。神さまが与えてくださる救いは、罪を犯していた私たちを赦し、義としてくださるだけでなく、私たちを聖なる者、汚れのない者にしてくださるところにあります。神さまが御子によって与えてくださる「輝かしい恵み」とは、罪を赦す恵みだけではなく、私たちを聖なる者、汚れのない者にする恵みです。私たちがこの恵みをたたえるのが、神さまのご計画であり、神さまの喜びです。
私たちは信仰者になっても罪を犯します。その私たちを神さまは義としてくださいます。神さまは、私たちが聖なる者、汚れのない者となるように、聖霊の導きと御言葉を与えてくださっています。義とされた信仰者は聖書に親しみ、聖霊の導きを受けて、み言葉に従い聖なる者、汚れのない者となることを目指します。
ローマの信徒への手紙8章32節にこう書かれています。
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
神さまは御子を惜しまず死に渡され、イエス様が十字架の上で死ぬことをよしとされました。私たちの罪を赦すためです。そして神さまは、「すべてのものを私たちに賜る」とあります。「すべてのもの」とは、私たちが聖なる者、汚れのない者となるために必要なすべてのもの、です。
ローマの信徒への手紙8章29節にはこう書かれています。
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
イエス様を信じる私たちを御子の姿に似た者にしようと神は考えておられるのです。神さまが罪を犯してしまう私たちをなお義としてくださるのは、私たちが義であることに偽りがないからです。私たちが聖なる者、汚れのない者、御子の姿に似た者となるということは言い換えると、私たちは義なる人間に造りかえられていくということです。
神さまから必要なすべての恵みを受けていくなら、たとい罪を犯しても確信をもって、私は義とされていると告白することができます。
ロマ書の8章29節の言葉を味わい説教の原稿を書いている時、私は神さまの恵みに心震えたのでした。(続く)